地域ぐるみで総力を挙げた支援体制の整備の事例

出典:「2016年版小規模企業白書」(中小企業庁)を加工して作成

【株式会社 三陸オーシャン(宮城県仙台市)】

(水産加工・販売)

〈従業員2名、資本金1,000万円〉
代表取締役木村達男氏

「故郷が誇るホヤの魅力を知って欲しい」「三陸の海を愛する『ホヤおやじ』が地域の活性化に貢献する」

◆事業の背景
ホヤに魅せられた「ホヤおやじ」、滋味なホヤの伝道師として奔走する。

仙台に、ホヤに魅せられ、ホヤ商品の開発・販売に奔走する人物がいる。株式会社 三陸オーシャン代表取締役の木村達男氏である。

ホヤとは「海のパイナップル」とも称され、成体は海底に固着し、さながら植物のようだが、脊索動物の一種である。日本では主に東北や北海道で珍味な酒の肴として食され、海外にあっても韓国やフランス、チリなどで食用とされているという。しかしこのホヤ、独特の匂いから、東北・北海道以外ではあまり好まない方もいるようだ。それなのに、なぜホヤなのか。

「ホヤには、甘味・塩味・酸味・苦味・旨味が揃っていて、滋味な食材として平安時代から食されていました。ホヤが嫌いな人は、きっと新鮮なホヤを食べたことがないのでしょうね。」と木村氏は意に介さない。

木村氏は、ホヤの水揚げ日本一を誇る石巻の出身。子どもの頃は、毎日のように食卓にホヤが上った。しかし、あまり好きではなかったという。この木村氏が、どのようにして、地元で「ホヤおやじ」と呼ばれるまでにホヤにのめり込んでいったのだろうか。
三陸で養殖されるホヤの収穫風景

◆事業の転機
ホヤの加工商品を次々に開発・販売。販路も拡大し事業は順調に見えたのだが。

木村氏の前職は、生命保険会社の社員。支店長として全国を飛び回る、いわゆる転勤族であった。「全国で勤務するうちに、三陸の水産物の良さに気付いてはいました。」と、その頃から望郷の念はあったようだ。そして52歳の時、会社が外資系企業に買収されたのを機に、あっさりと退職してしまった。退職のことは、家族にも相談せずに独断で決めたという。「サラリーマンとして先が見えたというか、このままの一生でいいのかという思いが強かったのです。生きている実感が欲しかったのかもしれません。」

これからは、地域や仲間と喜びを分かち合える仕事がしたいと、平成17年に株式会社 三陸オーシャンを設立。三陸の水産物の加工・販売を開始した。

その頃、ある友人から「三陸のホヤをもっと全国に広めては。」とのアドバイスを受ける。一生に一度の水産加工へのチャレンジ。そのメイン食材が三陸のホヤ。「これだ。」と思った。それからは脇目も振らずにホヤ一色の生活が始まった。

「ただ、横浜出身の家内や子どもたちはホヤが苦手なので、奇異な目で見ていましたが。」

ホヤは鮮度が命である。早朝から港に仕入に出かけ、すぐに皮むきなど下処理を行って冷凍し鮮度を保つ。その臭みの少ないホヤを使って、さまざまな加工商品を開発していった。

「生のホヤは美味しいけど、鮮度が落ちやすい。全国に普及させるには食べやすく加工する必要があると思いました。」

ホヤ姿焼き、殻付ボイルホヤ、焼きホヤジャーキー、づけホヤ、ホヤ塩から、ホヤ三升漬、ホヤ味噌漬など、自ら開発し委託生産した10種類を超す商品を、展示会や通信販売を介して紹介し、全国に向けて販売していった。そのような地道な努力が実を結び、高速道路のサービスエリアや大手ホテルなどへ徐々に販路も拡大、リピーターも増えていった。

しかし、このまま事業が順調に伸びるかと思われた最中、平成23年、東日本大震災による津波が三陸を襲った。
初心者でも食べやすい「焼きほやジャーキー」
一番の人気商品「殻付きボイルほや」

◆事業の飛躍
東日本大震災で事業は壊滅的に。故郷を守りたい一心で苦境を踏破。

想像を絶する津波は、漁師たちの船やホヤの養殖いかだ、作業小屋、生産を委託していた女川町の食品加工工場など、全てを呑み込んでいった。

「ホヤの在庫も加工商品も、一瞬にして失ってしまいました。それどころか、ホヤ自体が無くなってしまいました。無力感から廃業するしかないと思いました。」

それにも増して、船もいかだも、自宅さえも失った漁師たちの落胆ぶりは、それ以上であったろう。

「漁師の憔悴ぶりを見た時、三陸の水産業を守らなければと思ったのです。それには、事業を続けるしかない。自分が頑張るしかないと思いました。」

これまで開拓した販路を活用したり、仙台商工会議所が主催する「伊達な商談会」など販路開拓事業に積極的に参画したりして、三陸の水産物販売を拡大していった。また、全国の友人に商品のパンフレットを送ったりもしたという。

しかし一方では、ホヤへの情熱は冷めなかった。ホヤは、種付けから収穫まで約3~4年はかかるといわれる。三陸のホヤが復活するまでどうするかを考えていた時、アカホヤとコノワタを漬け込んだお酒によく合う岐阜県の珍味「莫久来(バクライ)」を思い出す。さっそく、北海道根室からアカホヤを分けてもらい開発したのが「アカホヤ塩から」だ。この商品は、大手航空会社の機内食でも採用され、ビジネスマンに好評だという。

「せっかくホヤの味を広めたのに、商品を途切れさせてしまうのが忍びなかったのです。」

震災後、三陸のホヤの養殖も少しずつ復興し、平成26年からは出荷も始まった。三陸オーシャンも何とか危機を乗り越えて、新たな挑戦が始まっている。

◆今後の事業展開と課題
ホヤへの情熱はますます過熱。「ホヤおやじ」のホヤ商品開発は続く。

ホヤ岩塩、ホヤ一夜干し、ホヤ焼汁、ホヤパウダー、ホヤ煮汁、だし用ホヤ殻など、今ではホヤ調味料もラインナップ。また、蔵王チーズを使ったホヤチーズ、笹かまのすり身を使ったホヤバーガーやホヤハンバーグ、大手食品会社とのコラボ商品であるホヤご飯の素、その他にもホヤ醤油、ホヤ味噌、ホヤマドレーヌ、ホヤパイ、ホヤあられ、ホヤラスク、ホヤ餃子などなど、これでもかと商品開発に暇がない。

「思いついたら自分で試作します。良ければレシピを加工会社に渡して委託生産します。故郷が誇るホヤの滋味を知ってもらいたいから、苦と思ったことはありません。悩みといえば、あまり儲からないことです。それでも、サラリーマン時代にはなかった、自分の仕事としての労働の喜びを感じています。」

最近では、ノウハウをオープンにして地域で助け合う姿に、ホヤ嫌いな家族もやっと理解してくれているという。

東日本大震災を乗り越えて、設立から11年目の三陸オーシャン。木村社長のホヤへの情熱は衰えることを知らない。

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【有限会社 永寿堂(茨城県高萩市)】

(和洋菓子製造・販売)

〈従業員12名、資本金300万円〉
代表取締役沼野辰三氏

「老舗和洋菓子店が女性の視点で新商品を開発」「売上がアップし従業員の意識も向上」

◆事業の背景
老舗和菓子店を引き継ぐも、中心市街地の衰退と大震災被災で売上が減少。

高萩市は茨城県の北東部に位置し、明治以降炭鉱の町として栄え、現在は木材加工が産業の中心となっている地域である。高萩の銘菓「八千代おこし」は、大阪で開業していた代表取締役の沼野辰三氏の祖父が高萩に移り住み、大正2年に永寿堂を創業したことに始まる。因みに、「八千代おこし」の「八千代」は君が代の歌詞が起源だという。

永寿堂は、第二次世界大戦前は「八千代おこし」の専門店であったが、終戦後は材料が不足したため、パンや和菓子、洋菓子なども作っていた。

「『他人の飯を食ってこい』との父の指示で、横浜で1年程、学校の先輩の和菓子屋を手伝って修行していたのですが、祖父が亡くなったために、高萩に呼び戻されて家業を手伝うようになりました。」

そして昭和63年に父が亡くなり、辰三氏が40代で社長を引き継ぐことになった。

「高萩では、昭和30年頃までは元日に学校に登校する習慣があって、その時におみやげとして当社の『八千代おこし』を配っていました。それもあって、高萩では『八千代おこし』が銘菓として親しまれ続けています。」

「八千代おこし」の特徴は、やわらかい口当たり。契約栽培した県内産のもち米を使って、強く圧縮しないように気を配りながら薄く延ばす方法が秘伝の技だ。昭和52年には第19回全国菓子大博覧会で、最高位の名誉総裁高松宮賞を受賞している。

永寿堂は、JR常磐線の高萩駅を中心に発展した中心市街地に立地している。中心市街地は、高萩の産業に大きな地位を占めていた大手製紙メーカーが平成14年に倒産し、人口が大きく減少したことで衰退してしまった。

さらに平成23年3月、東日本大震災に見舞われ、関東大震災の時に建て替えた店が全壊してしまった。「震災から震災までのお店でしたね。」と沼野氏は苦笑する。幸い工場は無事だったので、たまたま空いていた隣の敷地を購入して店舗と住居を新築し営業を再開した。しかし、中心市街地の衰退や景気の後退もあり、売上の減少に悩んでいた。
「八千代おこし」で有名な永寿堂本店

◆事業の転機
女性目線のアイデアで新風が、高萩ブランド推奨品に認定。

高萩市では特産品の新規開発を推奨しており、同社も「八千代おこし」と「高萩せんべい」が高萩ブランド推奨品の認定を受けていた。

売上を伸ばすには、これまでの商品だけに頼るのではなく、新商品の開発を手掛ける必要がある。しかし、なかなか良いアイデアが浮かばない。

「その頃、長女が家業を引き継ぐと言って戻ってきてくれました。現場を任せたところ、いろんなアイデアが出てきます。女性目線と言えばいいのでしょうか。私には斬新に感じました。」

そして平成21年に、長女が取締役に就任したことで、更に商品開発に弾みがついた。その一つが、今では“ゆるキャラ”としても登場している高萩ブランドのキャラクター「はぎまろ」をイメージしたワッフルだ。

「それまでは乾きもので日持ちする商品にしていましたが、長女による逆転の発想で、わざわざ生で2~3日しか持たないものにしました。これが結構好評で、『はぎまろワッフル』として高萩ブランド推奨品に認定されました。驚きました。」

さらにアイデアは続く。古くから親しまれている永寿堂のコシ餡を洋風のパイ生地で包んだ商品「パイまんじゅう松風」だ。「松風」は、昔高萩の海岸に松並木があったことをイメージした名称。実はこれは、以前からあった商品なのだが、もっと販促すれば売れるのではないかと考えた。とはいえ、マーケティングやプロモーションには、それなりの資金が必要だ。そこで、以前からお付き合いのあった高萩市商工会の経営指導員である川嶋隆夫氏に相談してみた。

◆事業の飛躍
小規模事業者持続化補助金を活用。商品パッケージのデザインも一新。

「川嶋さんからは、中小企業庁の『小規模事業者持続化補助金』を活用してはどうかとの提案がありました。それには、将来の目標を明確にするために経営計画書を作成する必要があるとのことでした。」

「消費者は味よりもパッケージを見ておみやげを選ぶ傾向にあります。だから商品パッケージのデザインを一新して、チラシも作成してPRを強化することを提案しました。その方針で経営計画を練っていきました。」と、川嶋氏は当時を振り返る。

その後、川嶋氏から紹介されたデザイン会社と協議を重ねながらパッケージのイメージを固めていった。その結果、テーマは「和風モダン」。昔ながらの餡と今風のパイのイメージを取り入れた。個装の袋とパッケージのデザインを一新し、可愛く優しさのあるデザインにたどり着き、統一イメージを引き上げることができた。また、新しいデザインを消費者にアピールするため、「New Design」をタイトルにし、新しいイメージを強調したチラシも作成した。

その結果、若い女性を中心に問合せや購買客が増加し、「パイまんじゅう松風」の売上は、2割程度伸びたという。

「『パイまんじゅう松風』が『八千代おこし』や『高萩せんべい』、『はぎまろワッフル』と並んで、永寿堂の看板商品となってくれるのを祈っています。」
パッケージも新たになった「パイまんじゅう松風」
新しい商品イメージを強調したチラシ

◆今後の事業と課題
老舗の世代交代を契機に、客層の拡大を図る。

現在、本店以外では高萩市を中心に茨城県内のスーパーやコンビニで販売を行っているそうだ。

「長女への世代交代をきっかけに、新しい層のお客さまが増えています。『はぎまるワッフル』や『パイまんじゅう松風』は、若い人からお年寄りまでご賞味いただける商品だと自負していますので、高萩の新たな銘菓として、ファンが広がってくれればと思います。」

永寿堂の経営が将来に向かって動き出すことで、従業員の活気も出てきた。そのことは従業員の定着率の高さや、以前退職した従業員が戻ってきたことでも分かる。

「長女の活躍には脱帽ですね。それとも振り回されているだけかもしれません。」と、沼野氏は嬉しそうに笑っていた。

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【コマツアートデザイン株式会社(埼玉県桶川市)】

(看板デザイン業)

〈従業員4名、資本金1,000万円〉
代表取締役小松茂男氏

「度重なる経営上の試練を乗り越え、音の困りごと解決にこだわって新ビジネスに挑戦」

◆事業の背景
事故で大学進学を諦め、レタリング技術を学び30歳で起業。

「大学進学を控えた高校生の頃、事故に遭って進学を諦めざるを得なくなった。それが今の仕事を選んだきっかけでした。」と、コマツアートデザイン株式会社の代表取締役である小松茂男氏は、今の仕事を始めたいきさつを語る。進学を諦めた時に、好きで始めていたレタリング技術を磨き自分の仕事にしようと決心した。それからは、仕事をしながら独学で技術を磨く生活が始まった。たまたま知人の紹介で入社した地元の屋外広告の会社で、プロの技に出会ったことで、レタリング技術が飛躍的に上達したそうだ。それが自信に変わり、独立の道を歩むことにした。

起業に当たっては、さまざまな地元の人の手助けを受けたという。破格の条件で事務所を借り受けたり、当初は銀行融資が得られず途方に暮れていた開業資金の300万円も、縁あって担保を肩代わりしてくれる人に出会うことができたりした。そうした幸運にも恵まれて、30歳にして屋外広告(看板)事業を立ち上げた。

◆事業の転機
事業は好調に滑り出したが、年商1億超のあとには厳しい試練が。

開業後は、「頼まれたことは決してできないと言わない。」ことを信条に、がむしゃらに働いた。お客さまにも恵まれ、1年目にして事業は黒字に。早々に小規模事業者経営改善資金(マル経融資)の融資を受けて銀行融資も返済した。

その後も看板事業は順調に伸びて、ある葬祭事業会社の県内300か所にも及ぶ看板のデザインと設置を任されるなど、事業は順風満帆、年商は1億円を超えるまでになっていた。

しかし、会社経営はそう甘くはなかった。その後、取引会社の事情で経営者が交替し経営方針も変更となり、それに伴って、あてにしていた売上は激減、半分にまで落ち込んだ。

さらにシーマン・ショックや東日本大震災による景気の後退が襲いかかり、いっきに経営難に陥ってしまった。

「社員への給与の減額や遅配などもありましたが、スタッフが協力してくれたおかげで、何とか経営をつなぎ止めることはできていました。」と、小松社長は当時を振り返る。

小松社長は当時、「お客さまに迷惑をかけないでうまく廃業できないか。」ということばかりを考えていたという。すがる思いで銀行や支援機関などにも相談に行ったけれど、結局は小規模事業者には事業再生の道は閉ざされていると感じた。

「倒産しかないと感じました。それではお世話になった方々に迷惑がかかってしまいます。だから、結果的に事業を継続するしかありませんでした。」

進むも地獄、退くも地獄とはこのことか。景気の大波に揉まれながら、小松社長のもがき苦しむ日々が、しばらく続いた。

◆事業の飛躍
自分にとっての武器は何かを模索、永年培った防音のノウハウがそれ。

何とか活路を見出そうと、自分にとっての武器は何かと考えた。小松社長は、もともとものづくりが大好きだった。世の中には音に関する困りごとが多いことに気がついて、看板の仕事の合間を縫って10数年前にから防音に関する商品開発、自社生産に挑戦していた。

最初は、一人用のカラオケボックスで50デシベルをカットすることに挑戦し、約2年半で商品化に成功したが、取引先の経営者が交替したことでカラオケボックス事業は残念ながら中断。そのノウハウを活かし、吠え癖のある中・小型犬用の防音効果のあるペットカプセルを開発し、産業財産権の一つである実用新案権を取得するも、構造的に密閉型になっていることから、飼い主に「閉じ込めてしまう」という感覚を持たれ、販売台数は受注生産で10台程度に止まった。「それでも、難しい技術的に挑戦したことで、ノウハウは残りました。」と、小松社長は決して悲観はしていない。それどころか、10年間の試行錯誤を経て、「音の困りごと解決のビジネス」という事業モデルに行き着いたのである。

そのビジネスを展開するに当たり、以前から会員であり理事を務めていた関係から、意見交換等をしていた桶川市商工会の経営指導員である神谷貴史氏から、中小企業庁の平成25年度補正「小規模事業者持続化補助金」の申請を勧めらた。吸音体感ブースを考案し申請したところ、無事採択を受けることができ、「オフィス家具展」に出展した。反応は上々で問合せもいくつかあった。それらの問合せや会場の声を取り入れ、吸音体感ブースを改良した吸音ボックスを考案し、中小企業庁の平成26年度補正「小規模事業者持続化補助金」を申請し、採択を受けた。消音性能の改良を重ねて商品力は次第に向上し、音の困りごとを解決するというノウハウは蓄積しているものの、今一歩のところで商談話が進まない。

そのような状況から、「そもそもこの商品の本当のマーケットはどこにあるのか。」ということを考えて商品づくりをすべきであると気付いた。

改めて神谷経営指導員と相談し、埼玉県の「経営革新支援」を受けるために計画を策定、平成28年3月に承認を得て、顧客ターゲットを明確にした商品づくりに取り組んでいる。現在は、楽器を練習する人向けの消音ルームや銀行内の融資等の相談スペースなどを候補に、試作品を開発している。
ペットカプセル・ペットカプセルの防音機能
試作品の防音電話ボックス
桶川商工会経営指導員神谷貴史氏

◆今後の事業と課題
防音効果のあるパネル用部材の開発などで、事業の拡大を目指す。

当面の課題は、ずばり商品の外観デザイン。オフィスなどの設置場所に馴染むようなデザインや色遣いが課題だ。

「今後は、これまでに蓄積したノウハウを知的財産化し、積極的に情報発信していきたいと思っています。また、これまでの受注生産型のビジネスから、吸音効果を持たせたオフィス向けのパーティションパネル用の部材開発など、事業規模の拡大を目指していきたいと思います。」

折しも、小松社長のご子息は、インテリア関連の仕事をしているとのこと。

将来的には、インテリアに強みを持つご子息に、防音事業の将来を託したいとも考えているとのことだ。

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【株式会社アトリエMay(大阪府牧方市)】

(ヨシや竹を材料とした和紙の企画・デザイン)

〈従業員4名、資本金300万円〉
代表取締役塩田真由美氏

「大切な地域資源を作品として伝えたい」「ヨシや竹の和紙を使ったオリジナル作品を商品化」

◆事業の背景
和紙との出会いから、若い時のデザイナーとなる夢を実現。

枚方市は、大阪市と京都市のほぼ中間に当たる大阪府北東部、大阪市から京都市に向って約20kmの淀川左岸に位置している。枚方という地名は古く、日本最古級の文献である古事記、日本書紀、風土記などに登場している非常に歴史のある街である。

株式会社アトリエMayは、淀川・鵜殿のヨシと枚方・穂谷の竹など、地元大阪の地域資源を活用した事業に取り組んでいる。ヨシを原料としたヨシ紙と竹を原料とした竹紙を組み合わせた照明や便せん、箸等のデザイン及び販売である。

代表取締役の塩田真由美氏は、絵を描くことが好きで芸術大学を目指したが、家庭の事情で断念、銀行に入行し4年間働いた。それでも絵を描くことが諦めきれず、友禅の職人になり、その後デザイン事務所に入って図案を勉強したという努力家だ。
やがて、結婚・出産があり退職した後、自宅でイラストを描く仕事などをしながら子育てをしていた。「その頃、インテリアの先生が京都で建築用の大型和紙のショウルームで接客をするスタッフを探していたので応募しました。それが和紙との出会いです。それから京都の大型和紙制作会社勤務やアートギャラリー勤務をしていたのですが、いつか独立したいという気持ちがありました。」

そして、生まれ故郷の枚方市に隣接する交野市で、ミニカフェ「和アートカフェMay」を開店した。店名のMayは塩田氏が5月生まれということと、ローマ神話の成長の神様(Maia)が由来だ。店には和紙の明かりと和小物を置いたり、垂幕に“和紙の明かりでカフェタイム”というキャッチコピーをつけたりと工夫を凝らした。
そのような中、税理士である同級生が運営する枚方市駅前のビルの2階が空いていたので、和紙ギャラリー「アトリエMay」をオープンさせることになった。同級生は相続の税務セミナー用として、塩田氏は和紙のギャラリーとして共用していた。
アトリエMayの内部。和紙を使ったいろいろな照明がある

◆事業の転機
和紙のオリジナルデザインや企画を開始、大阪スタイリングエキスポへ出展。

「でも私は、カフェやギャラリーを運営することが目的ではありませんでした。和紙のオリジナルのデザインや企画がやりたいという気持ちが強かったのです。」

そのような時期に、大阪商工会議所が主催している大阪スタイリングエキスポの公募があった。満を持して応募したところ、約60社の中から選ばれて展示させてもらえることになった。大阪スタイリングエキスポに出たことで大阪のローカルテレビのニュースや新聞、雑誌に載ったため、ヨシで作った照明が注目されるようになっていった。折しも、ギャラリー運営が厳しくなっていたこともあり、思い切ってギャラリーは同級生の奥さんに任せ、自宅を事務所として活動することになった。

大阪スタイリングエキスポが縁で大阪商工会議所にも入会し、ヨシを使った「照明」と「ステーショナリー」の2事業で大阪府の「経営革新支援」を受けるために計画を策定し、承認も得られた。

「ところが、一人でデザインの仕事から家事までやるのは無理でした。そのうえ、ヨシを守るボランティア活動などに力を入れてしまって。五里霧中の状態でした。」

そのような時、以前からいろいろと相談してお世話になっていた北大阪商工会議所の経営指導員である榎並佑亮氏からのアドバイスもあり、平成26年に事務所を借りて「アトリエMay」を新規オープン、それに合わせて事業を法人化し、アルバイトを雇ってデザイン業務を本格化させた。

◆事業の飛躍
ステーショナリー商品を事業化、助成金の活用で事業が本格化。

事業を動かすには資金の調達も大切だ。そこで、公益財団法人 大阪産業振興機構が実施している「おおさか地域創造ファンド事業」に応募することにした。

「事業計画書や趣意書などの作成には大変苦労しましたが、周りの皆さんに指導していただいてなんとか採択されました。」

この資金を元手に、ヨシを使ったさまざまなバージョンのデザインと制作に力を入れていった。

同社の主力商品は大きく二つだ。一つは、ヨシ紙や竹紙を使用してシェードにした照明商品。二つ目は、ヨシ紙を使ったステーショナリーや扇子、ヨシをプラスチックと複合して作られたお箸などの雑貨商品。

それらが、地域資源を有効活用する事例として注目され始め、大手百貨店の催事に単独で出展するまでになっていった。

「和紙や竹紙を使った照明は、その日本的な柔らかさが旅館などにマッチするようです。箸や小物、ステーショナリー等は、記念品や引出物などで引き合いが増えています。最近ではネット通販でも販売を始めています。今後は海外へも目を向けたいと思っています。」
ヨシ創作照明「平安」
ヨシを活用した雑貨類の数々

◆今後の事業と課題
ビジネスモデルの見直しが必要、収益を確保し事業でヨシ原を守りたい。

地域資源であるヨシや竹を使ったオリジナルなデザインであることで、塩田氏の知名度は上がったものの、事業の面では課題を抱える。

百貨店との取引は、確かにお客さまの安心感につながるが、原材料が高いことや人件費、流通コストがかかるので利益が薄いという。また、「照明」と「ステーショナリー」では販売ターゲットが違うし、注文品と量産品では制作の行程も違う。一人で全てをこなすには荷が重いことも現実だ。

「デザイナーとしてヨシのデザインの注文を受ける部門と、照明をブランド化して売る部門、ステーショナリーを量販する部門をしっかり分ける必要があると思います。また、ヨシを守るボランティア活動も続けていますが、非営利活動と収益活動のケジメも大切です。ホームページも分かりやすくする必要があります。」

ヨシは、二酸化炭素を閉じ込め、地球温暖化を防ぎ、またチッソやリンなどを、水の中や土の中から吸い上げて栄養分とするなど、淀川の水質浄化につながっている。そのヨシを有効活用して事業につなげていくことで、地域の自然環境を守っているという自負がある。

「しっかりと収益を上げて、ボランティアではなく事業として継続していきたいと思います。また、女性の感性を活かしたデザインを大切にして、地域の女性の働く場をもっと提供できたらいいと考えています。」

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【筒井農園(岡山県勝田郡勝央町)】

(ぶどう(ピオーネ)などの生産、加工食品の開発・販売)

〈従業員0名〉
代表筒井則雄氏

「20代で百貨店社員からブドウ農家に転身」「ドライフルーツの加工食品開発で収益アップ」

◆事業の背景
30歳手前で脱サラして農業を志す。収益性を確保するため加工品販売を開始。

勝央町は岡山県の北東部、中国山脈の主峰・那岐山の南に位置し、北部は緩やかに傾斜する丘陵、中南部は町を南北に貫流する滝川に沿って開けた、自然豊かな町である。

その勝央町で農業を営む筒井農園の筒井則雄氏は、大阪生まれ。高校まで東京で過ごし、関西の大学を卒業後、大阪の百貨店に勤務して婦人服の販売を担当していた。しかし、百貨店の仕事にはあまり興味が持てなかった。

「自分の手で何かを生み育てたいと思っていました。それで、農家になりたいなと思ったのです。」

そのような時、以前、岡山県の美作(みまさか)で食べたピオーネの味を思い出した。そして勝央町への移住を決意、ブドウ農家として20代最後の挑戦が始まった。

移住に際しては、県や国のIターン支援制度を活用し、移住後は県などの技術指導を受けながら農業を学んでいった。

「周りの農家の方々も親切に教えてくれるので、技術面で困ったことはあまりありませんでした。」

今では、1ヘクタールの農地に、ピオーネを中心に、5種類のブドウ、ブラックベリーなどを栽培している。当初はハウス栽培も行っていたが、経費がかかるので4~5年で止めてしまったという。

「そうすると、農閑期の半年間は何もすることがなくなってしまいます。だから加工品を作ることにしました。規格外農産物の有効利用にもなります。」

食品加工はもともと好きだったという筒井氏は、最初、桃やブラックベリー、イチゴなどを使った菓子を作ってみた。しかし、日持ちしないのでイベントなどの試食販売でしか出品する機会がない。副業としてはそれでも良かったが、しっかりとした商品にするにはどうすれば良いのかと悩み、みまさか商工会に相談、経営指導員の岡口功治氏に出会った。
みまさか商工会経営指導員岡口功治氏

◆事業の転機
ドライフルーツにすることで消費期限は伸びたが、日照不足による収量大幅減少に見舞われる。

まず手始めに、プリンを商工会に持ち込んでみた。しかしこれも消費期限が製造から3日しかないので、イベント等での対面販売や試食販売では好評だが、商品として流通させるのは難しかった。そこで考えたのがドライフルーツログ「果樹木の実(かじゅこのみ)」である。ドライフルーツログとは、イタリアの伝統料理で、ドライフルーツを練り固めてサラミのような棒状に固めた食べ物だ。「果樹木の実」はピオーネを干しブドウにして、ナッツやチョコなどを練り合わせて作る。火は通していないが、干しブドウは日持ちがするので、バイヤーや消費者が取り扱いやすいと考えた。

約8か月で開発し、加工は自宅の横にある加工場で行った。そして美作市にある道の駅「彩菜茶屋」でテストマーケティングを行ってみたところ、反応は上々だった。「筒井さんには、商工会が行ったヒアリングの内容を伝えたり、決算書などを定量的に分析したりするなど、とにかく数値化して分かりやすく評価結果を伝えました。そうすることで、支援する側と支援される側のズレを少しでも小さくすることができたと思います。」と、岡口氏は語る

その数値化したデータを計画書に落とし込むことで、平成26年5月には、農林水産省の六次産業化・地産地消法に基づく「総合化事業計画」に認定された。

ところが、平成26年は日照不足によりピオーネの収穫量が30%もダウンしてしまった。原材料の確保ができなかったため、商品の販売を延期せざるをえず、収益も確保できなかった。

「新たな商品も企画していたのですが、その材料も確保できずダブルパンチに見舞われてしまいました。」
筒井氏が栽培しているピオーネ

◆事業の飛躍
原材料確保のための協力者を確保。ワイン愛飲者向け商品を開発し収益が向上。

何とか解決しなければと、原材料を確保するために協力者を募ることにした。すると、同じような志を持つブドウ農家が名乗りを上げてくれた。そして平成27年、原材料確保と生産力、営業力の強化を図る目的で法人化を進め、筒井氏を代表社員とする合同会社「のふう」を設立した。社名の由来は、則雄の頭文字「の」とパートナーの名前の頼風(らいふう)の「ふう」を組み合わせたもの。

体制を固めた筒井は、道の駅などでのテストマーケティングの結果を踏まえ、昨年の計画を見直し、商品の顧客ターゲットを絞ることにした。そして平成27年1月には栽培果実を菓子に加工、ワイン愛飲者に向けに6種類の味「ドライフルーツログ 大人のピオーネチョコ」として菓子製造販売に進出した。この事業で、岡山県の「経営革新支援」の認定も得て、社会的信用力が向上、メディアへの発信の上でも好材料となった。さらに4月には、新商品のアイスのパッケージデザインを中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」を活用して作成し、新聞紙面にも紹介されたことで認知度が高まったという。

これらを追い風に、平成27年9月から本格的にドライフルーツログの製造を開始、取引先も徐々に増え、平成27年度の加工品全体の年間売上高は、前年比70%以上のアップが見込まれている。
ドライフルーツログ「果樹木の実」のチラシ

◆今後の事業と課題
商品をブラッシュアップし、加工品販売に注力。

この支援のきっかけとなったプリンも、専門家派遣制度を活用して消費期限を延ばすことに成功したという。

「案外簡単でした。最初からこの方法でプリンに取り組んでいれば、こんなに苦労もしなかったのですが。」と岡口氏は苦笑いする。

農地を拡げて収穫量を増やすのは大変だが、加工品であれば工夫次第で収益を確保できる。

「類似品があまりないということは説得商品でもあります。だから、試食会でアンケートを取って情報を集め、お客さまの意見に耳を傾けることが大切です。これからも百貨店のバイヤーなどのニーズも取り込みながら、商品をブラッシュアップしていきたいと考えています。」と、筒井氏は衰えない意欲を語ってくれた。

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【有限会社 高志硝子建材(徳島県板野郡上板町)】

(設備工事業(住宅のリフォーム))

〈従業員1名、資本金500万円〉
代表取締役高志晃生氏

「企業向けから個人向けへ業態をシフト」「チラシの工夫で顧客が増加し業績がアップ」

◆事業の背景
サラリーマンから家業を承継、バブル崩壊以降苦境に。

徳島県の東北部、上板町にある有限会社 高志硝子建材(たかしがらすけんざい)は、代表取締役である高志晃生(たかし あきお)氏の父が、昭和41年にそれまで勤めていた徳島県内のガラス問屋から独立して、昭和53年に法人化した会社である。先代の時代は、工務店や建設会社へのガラス建材卸売業を営んでいた。

一方、高志氏は18歳から高知県で運送会社に勤めていた。当時、運送の仕事は、長時間労働をすれば、それだけ儲かる仕事だった。しかし、労働基準の遵守が求められ、残業時間の制約が厳しさを増したことで、あまり実入りのある仕事ではなくなっていた。そのような時、父親からの誘いもあり、3年で徳島に帰省、家業を手伝うことに。先代の時代は、木製の枠にガラスをはめ込んだりして商品を卸していたが、その後はアルミサッシの普及が進むにつれ、ガラス建材卸売事業は拡大していた。

しかし、先代の父が平成10年に他界すると、それまで取引していた業者仲間との調整に追われ、新たな顧客との関係づくりが難しくなっていた。そして、バブル経済が崩壊して数年後からは、サッシメーカーが業者を割り当てるように業界の構造が変わってきた。しかも販売価格は定価の4割程度。さらに世界経済危機などの追い打ちもあり、四国内のガラス業者は苦境に陥った。

「昔は、宴会やゴルフ営業で仕事がとれたものですが、今は大手・中堅建設会社の幹部のコネでもない限り、拡販が厳しい業界になってしまいました。」

◆事業の転機
起死回生をねらいリフォーム事業に業態を転換、消費者向けの住宅“よろず相談所”を目指す。

現在では、大手サッシメーカーがその業容を広げ、内装建材も含めて建築資材を幅広く取り扱うようになってきている。同社のような小規模建材卸売業者は、更に追い込まれていった。そこで高志氏は、大手メーカーが得意とする新築物件よりも、中古物件の玄関や窓などのリフォーム事業に活路を見出すことにした。

「建築業者や工務店からの修繕依頼もありますが、一般の消費者から直接、相談が舞い込むことが増えました。店がメインストリート沿いに立地しているので、一般の方に場所が分かりやすいこともあるかもしれません。」

消費者と直接取引をするようになると、消費者のニーズがよく分かる。リフォーム事業に転換することで、同社は“ガラス屋”のイメージから脱皮し、小さな“総合建材修繕屋”に生まれ変わることに。いわば、住宅の“よろず相談所”だ。

事業再生への道筋が見えたところで、この新しい事業をどのように消費者にアピールするのかが課題となった。それにはやはり、チラシのポスティングが常套手段だろう。そこで早速、高志氏が副会長を務める上板町商工会の経営指導員である福田浩幸氏に相談したところ、中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」の申請を勧められた。
上板町商工会経営指導員福田浩幸氏

◆事業の飛躍
チラシの工夫で事業を猛アピール、メニューのイラスト化とクーポン券がヒット。

同社がチラシで訴えたかったのは、修繕工事ができるということであるが、言葉だけではなかなかイメージが伝わりにくい。そこで、事業内容をイラストで分かりやすく表現した。

「すぐに修繕を考えている人はチラシを見てくれますが、必要だと感じてない人はチラシに目がいかないものです。そこで、ニーズの高い修繕内容をメニュー化してイラストにし、それぞれに切取り線を入れてみました。また、お得感を出すためにクーポン券も付けました。」

すると、その目論見は見事に的中した。

チラシは“千三つ(せんみつ)”といわれ、ヒット率が低い広告手段だとされているにも関わらず、1回目の配布で、一週間に約40件の問合せが来た。

「さすがに驚きました。ご依頼いただいたお客さまを訪ねた時、電話器の横にチラシのメニューが切り取られてピンで貼ってありました。狙ったとおりでした。」と、高志氏は嬉しそうに話す。

今でも、新規顧客の増加を目指して、採算度外視で「網戸の張り替え1枚500円のクーポン券」を付けるなど、工夫を凝らしているそうだ。

高志氏のこの取組は評判となり、徳島県の新聞で紹介されたこともあるという。また、一般社団法人徳島ニュービジネス協議会が主催する「徳島ビジネスチャレンジメッセ」にも共同出展し、創意工夫を凝らした新サービスの普及と知名度の向上を図っている。
また、顧客からの要請もあり、段差の解消や歩行用の手すりを付けたりするバリアフリー化の工事も請け負うようになってきている。

建築会社への卸売業から、消費者向け直接施工事業者に転換したことから、業績も安定し、今では売上の約5割は消費者向け取引によるもので、売上全体も上昇している。

◆今後の事業と課題
総合メンテナンス業として、迅速・丁寧な対応で顧客の信頼を獲得。

問合せが増えたのは大変有難いことだが、作業内容の確認と見積もりのための現場での下見など、対応するのは高志氏と弟の二人だけ。

「最低でも1週間以内には訪問したいのですが、すぐには回りきれないという悩みがあります。迅速・丁寧に対応できる体制を作って、信頼を築いていきたいですね。」

今後は、総合メンテナンス業として、幅広く迅速に対応できる体制を構築することが課題だ。

一般の消費者は、家や設備の保証期間が終わってしまった後、修理のことをどこに相談すればいいのかが分からないという状況にある。そこに同社の事業チャンスがある。

「お客さまと直接話してニーズをよく理解すること。そして迅速・丁寧な対応で信用を獲得することが一番大切なことです。消費者と直接取引することで、リフォームに関する色々な提案もできるし、それがまたビジネスチャンスを生みます。これからは、お客さま向けの相談スペースを店内に設けることも考えています。」と、高志氏は将来に向けた抱負を語ってくれた。

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【株式会社 八女ジビエ(福岡県八女市)】

(野生鳥獣(主にイノシシとシカ)の解体、精肉及び加工品の製造・販売)

〈従業員0名、資本金30万円〉
代表取締役井手口良文氏

「鳥獣被害対策から新事業の創出へ発想を転換」「八女のイノシシを八女ジビエとしてブランド化へ」

◆事業の背景
人口の減少や高齢化で鳥獣被害が深刻に、駆除の決め手はないのか。

近年、全国的に鳥獣被害が拡大しており、その被害額は約200億円にのぼるそうだ。その主な原因は、過疎化や高齢化による中山間地域における人間活動の低下といわれる。
その他にも、温暖化による動物の繁殖力の増大や猟師の減少、高齢化による捕獲数の減少が関係しているようだ。良質な「八女茶」の産地として有名な福岡県八女市においても、鳥獣による農作物への被害は看過できない状況となっており、その犯人はイノシシ。さまざまな対策は打つものの、イノシシはなかなかの知恵者らしく、被害をくい止めることが難しい状況であった。「私が小学生の頃までは、人里でイノシシはほとんど見かけなかったのですが、その後は人家近くにも出没するようになりました。」と、山育ちである八女ジビエの代表取締役である井手口良文氏は振り返る。

「それに、通常イノシシは春と秋に出産するものですが、最近では年中子連れのイノシシを見かけます。どういう訳か、昔は見かけなかったシカまで出てきます。」

イノシシは雑食性で何でも食べる。地域には天敵となる動物もいない。唯一の天敵といえる人間が減り、温暖化によって快適な生活環境が整い人里の豊富な餌が手に入れば、爆発的に繁殖することになる。

「私の父もそうでしたが、中山間地域の住民は猟銃を持っている人が多く、狩猟時期の冬になるとイノシシ狩りをやりました。捕獲したイノシシは猟師自身が解体して、近所で分けあってよく食べました。当時は食用の生肉はあまり流通していなかったので、肉といえば猪肉。ごちそうでした。」

やはり、イノシシ駆除の決め手の一つは、天敵である人間が捕食することかもしれない。

◆事業の転機
八女の美味しい猪肉を特産品に、官民一体となったプロジェクトが始まった。

井手口氏は、周りに猟師が多かったこともあり、21歳で猟銃の免許を取得し本格的にイノシシ猟を行っていた。

「あまり知られてはいないと思いますが、昔から猪肉は高級食材として専門店などに販売されています。イノシシの捕獲と解体には、それなりのノウハウが必要ですから、猟師には先輩から代々引き継がれた知恵や技があります。」

一般的に猪肉は“臭くて硬い”とのイメージがあるようで、敬遠する消費者も少なくない。

「生息地域や季節、エサなどが関係しているようですが、確かに臭いがきついイノシシもいます。私の場合は、自分で食べてみて臭いがする猪肉は廃棄するようにしています。また他の猟師からイノシシの引取りを依頼されることもありますが、捕獲した状況や肉の状態が分からないので、お断りしています。」

イノシシの解体や販売には保健所の許可が必要である。井手口氏は、これも怠りなく実施している。このような誠実さが、井手口氏が猟師として長く認められ、八女イノシシが高い評価を受けている所以らしい。

一方、八女市の産業振興を支援している八女商工会議所は、鳥獣被害対策と新産業の創出を目的に、平成23年からイノシシの商業利用に関する調査を開始していた。

「イノシシを八女の特産品にできないか考えました。それで、地元で腕の良い猟師として評判だった井手口さんに協力を依頼したのです。」と、八女商工会議所の経営支援課長である池内一将氏はいきさつを語る。

平成25年には、八女商工会議所の支援を受けて、井手口氏が株式会社 八女ジビエを設立、猪肉の商品開発と販路開拓のプロジェクトは本格化していく。
八女商工会議所経営支援課長池内一将氏

◆事業の飛躍
各地で八女猪肉は高い評価を獲得、八女ジビエのブランド化を推進。

まず、井手口氏が中心となって捕獲を行うグループのメンバーに捕獲や解体の技術を伝授、良質な猪肉の確保を図った。そして、イノシシ駆除の活動状況や良質な八女産猪肉の美味しさを、メディアも活用しながら、福岡県内や都心に向けてPRした。

さらに、展示会や試食会を通じて八女産猪肉を拡販していった。また平成24年からは、八女市内や福岡市内で「八女ジビエウィーク」を毎年開催、八女産猪肉料理を飲食店で実際に味わってもらう試みを行っている。

「試食会で、始めは猪肉を敬遠される方も、食べてみるとその味わいに驚かれるほど好評です。特にシンプルなしゃぶしゃぶにすると、猪肉の美味しさが伝わるようです。」と井手口氏は手ごたえを感じている。

その他にも、ソーセージやハム、ベーコンなどに加工して、八女ジビエのブランド商品のラインナップを増やしている。その中でも、福岡市内のシェフや飲食店経営者と共同開発したレトルト商品「八女ジビエイノシシカレー」は高い評価を得ており、平成26年には「フード・アクション・ニッポン」において、審査委員特別賞を受賞している。

「東京や福岡で、ジビエを取り扱う飲食店やシェフから高い評価をいただいて、大きな自信になっています。これからもイノシシを始め「八女ジビエ」のブランド化に向けて取組を続けていきます。」と、池内氏は意気込みを語ってくれた。
八女ジビエの加工商品ブランドの統一を目指している

◆今後の事業と課題
イノシシ皮の利用を模索中、八女のイノシシに夢を追う。

井手口氏は、本業である建設業の傍ら、今でも年間50頭ほどのイノシシを捕獲・解体し、生肉を販売するとともに加工商品の開発を進めている。

「八女の猪肉の品質は高い評価を受けましたので、これからは販売をどのくらい伸ばせるかですね。今は販売量が多くないのですが、将来的には人を雇えるくらいの規模にしていくつもりです。また最近では、肉以外に皮の利用も考えています。剥いだ皮をなめしてバッグなどを試作し、耐久性や色落ちなどを検証しています。野生なので傷も多いのですが、それが味になって、面白い商品になるような気がしています。」

現在、福岡県内の小学生を対象とした地産地消を推進する食育イベント「ジビエ探検隊」など、古来の食文化を考える機会も増え、地域が一体となった取組が続けられている。

山で育ち、イノシシを獲り続けてきた井手口氏。イノシシを知り尽くしてイノシシを商品として活かす熱意は本物だ。

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【木村屋菓子店(宮城県柴田郡村田町)】

(菓子製造・販売)

〈従業員1名〉
代表木村正隆氏と淳子夫人

「老舗菓子店を守り銘菓を開発することで、歴史と文化の蔵の町『村田町』を活性化する」

◆事業の背景
その昔、繁栄を謳歌した蔵の町、村田町で、後継ぎとして老舗菓子店を切り盛りする。

仙台市内から高速道路を使って約30分、仙南と呼ばれる宮城県の南部に村田町は位置する。古くから明治初期にかけて、染色に使われる特産品の紅花交易で大いに栄えた地域である。さらに、江戸から仙台方面と山形方面へ向かう分岐点でもあり、多くの商人が行き交う物資輸送の要衝として、豪商たちが富を蓄積していった地域といわれ、その名残は町に点在する多数の立派な蔵に見て取れる。また、穏やかな地形が京都を思わせることから、「みちのく宮城の小京都」とも称されている。

しかし明治中期から、染色技術の近代化や鉄道が海側に開通したことで、村田町の繁栄の勢いは次第に衰え、現在では過疎化と高齢化が進んでいる。

この歴史ある村田町の蔵の町並みの一角に、木村屋菓子店がある。創業は明治37年(1904年)、100年以上続く老舗の菓子店である。店舗はさほど大きくはないが、町内の常連客に愛されて「まんじゅう」や「もち菓子」、「ようかん」など和菓子を中心に製造・販売している。特に自家製の餡にはこだわりがあり、熟練の職人が丹精込めて作っているという。

「高齢で早起きのお客さまに合わせて、朝は7時から店を開けます。また店が閉まっていても母屋に来られる方にはいつでも対応しています。うちのような菓子店が町内には4店舗ほどありますが、それぞれ常連客を持っていて競合なんてありません。」と、4代目の木村正隆氏は穏やかに話す。

◆事業の転機
季節やイベントに合わせて、オリジナル商品を開発。

県産品として推奨されている「梅羊羹」など、和菓子を主力商品としている木村屋菓子店だが、村田町の歴史や風情を取り入れたオリジナル商品にも力を入れ始めている。

800年の歴史を誇り、秋に蔵の町並み一帯を通行止めにして盛大に催される「布袋(ほてい)まつり」のお囃子(おはやし)にちなんだ「布袋の太鼓」。白鳥神社の樹齢300年以上といわれる古木名木にちなんだ「蛇藤まんじゅう」や「けやきサブレ」、「いちょうの舞」。特産品の「そらまめ」をパウダー状にして餡に練り込んだ「そらまめくん」など、意欲的に新商品の開発に取り組んでいる。

「その他にも、特産の蕎麦やブランドとうもろこし『未来』を使った商品など、季節やイベントに合わせた村田町の“銘菓”を作りたいと考えています。また村田町のキャラクター『くらりん』を冠したパッケージデザインなども工夫したいと思います。」

村田町には、「布袋まつり」のほかにも、空き店舗や蔵を活用して80名以上の陶芸家が集結し作品を出品展示する「みやぎ村田蔵の陶器市」がある。毎年多くの来場者が県内外から村田町にやって来るという。そうした観光客向けにオリジナル商品を紹介して知ってもらい、リピーターを増やしたい考えだ。

「道の駅村田には月間約2,000人の来場者がありますし、蔵の町並みにも月200人程度の観光客が訪れます。それを考えれば、アピールできる商品を開発すれば勝算はあると思っています。」

しかし、強力な競合店が現れた。県内の有名な菓子店が、道の駅村田近くに出店するというのだ。

◆事業の飛躍

有名菓子店が村田町に出店。オリジナル商品の商標化で対応。

「驚愕とまではいきませんが、危機感を覚えましたね。それで、村田町商工会の赤間さんに相談しました。」

木村氏自身も村田町商工会の理事を務め、また元青年部の部長でもある。有名店の出店は、町全体の問題だと考えた。

相談を受けた村田町商工会の経営指導員である赤間利明氏は、木村屋菓子店が開発したオリジナル商品のブランド化を急ぐ必要があると感じ、商標登録を勧めた。しかし、商標登録申請は専門的な知識も必要であるため、宮城県よろず支援拠点のコーディネーターである田中宏司氏に協力を依頼、宮城県発明協会とも連携して木村屋菓子店への支援を開始した。

まずは、看板商品の「けやきサブレ」と「いちょうの舞」の商標登録に関して、発明協会へ調査を依頼したところ、「けやきサブレ」は一般名称の組み合わせであり文字商標での登録が難しいため、図形での登録が妥当との回答を得た。一方「いちょうの舞」は一般文字での登録が可能ではないかとの意見であった。現在は商標登録願が完成した段階で、今後、申請時期や費用対効果などを勘案して、次のステップへ進めていく方針だという。

「商品を商標登録するなんて、これまで考えてもみませんでした。商標登録自体の効果はこれからの話ですが、家族でこのことを話し合う機会が増えたことで、店の将来を考えるいいきっかけになりました。」と、木村氏は支援の効果を語っている。

これまでは、村田町の老舗菓子店として住民とともにあり続ければいいと考えていた。しかしこれからは、積極的に商品を開発してブランド化し拡販するという“攻め”の意識を持たなければ、事業の継続すら危ういことに気付いたということだろう。

◆今後の事業と課題

店を守ることは村田町を守ること、木村屋菓子店の将来を拓く。

「まずは、この店の経営を固めて販売を強化することが大切だと考えています。そのためには堅実に販路を拡げていくことが第一です。その次は生産能力を上げること。今は2名の職人で手いっぱいなので、包装作業の機械化などで対応できればいいと思っています。余力ができれば商品開発やパッケージデザインのアイデアも出てくると思います。」

村田町商工会や宮城県よろず支援拠点も、助成金制度などを活用しながら、木村屋菓子店への支援を続けていくとのことだ。

木村氏は菓子店経営の傍ら、「布袋まつり」の実行委員や、村田町の蔵を活用したまちづくりを推進するNPO法人「むらた蔵わらし」の理事を務め、村田町の活性化を進める若手のリーダー的存在だ。村田町を愛する所以だろう。

「村田町の文化や歴史を守っていくためには、村田町で商売を営む我々のような事業者が元気でなければならないと思います。『木村屋菓子店を守る』=『村田町を守る』ことでもあります。負けられません。」

「村田町に木村屋菓子店あり」と称される日も、遠くはないかもしれない。