需要を見据えた経営の促進の事例

出典:「2016年版小規模企業白書」(中小企業庁)を加工して作成

【有限会社バースケア(群馬県吾妻郡中之条町)】

(業務用バスマット等の開発・製造・販売)

〈従業員2名、資本金300万円〉
代表取締役飯尾守氏

「ユーザーも作業者も喜ぶマットで、日本のお風呂文化をより快適にしたい」

◆事業の背景
若干28歳にしてプロジェクト責任者に。その経験が起業の糧となる。

起業して事業を継続していく中で、経営者として否応なく対応しなければならないことは多い。資金繰りや銀行との交渉、人事、メディアとの付き合いなど、20代の会社員がその全てを体験することは、なかなか難しい。有限会社バースケアの代表取締役である飯尾守氏は、若干28歳にして、それらを体験できる環境をつかんだ。病院とリゾートマンションが併設されたクアハウスの企画から運営までを、責任者として任されたのである。しかし、そうなるまでが過酷であった。

「ある時、当時働いていた会社のオーナーに、『往復の航空券とホテルだけは取ってやるから、2か月間ドイツで本場のクアハウスを見て研究してこい』といわれました。ドイツ語はもちろん、英語もろくにできないのに、結果を出さなければなりません。特に最初の2週間は食べ物が合わず辛くて。フランクフルトで日本料理店を見付けて、『いらっしゃいませ』と言われた時、思わず涙が出ました。」

そこでふっきれた飯尾氏は、群馬大学の教授に書いてもらった推薦状を手に各地の病院を訪ね歩き、調査を重ねた。帰国後、プロジェクトの責任者として、精力的に働くこととなる。

その後その仕事を辞め、温浴施設に関する経営コンサルタントとして働いていた時、新たな転機が訪れた。働いていた企業の先行きが怪しくなってきたのである。

「今のままでは続かないと、社内でずいぶん進言しましたが聞き入れられず、起業を決意しました。ただ、いい関係で辞めたかったので、辞めた後半年間は事務所の一角に間借りして、その会社の仕事も手伝いながら、本格的に起業の準備をしました。」
社屋は豊かな自然のなかの一軒家

◆事業の転機
業界の論理で作られていたマットを、ユーザーと作業者の論理で、新たに製造。

平成15年に会社を設立した後、まず飯尾氏が始めたのは、レジオネラ菌を抑制する薬剤をオリジナルの容器とともに販売する事業である。これは当時、第3セクターが運営するリゾート施設でかなり売れたという。しかし、飯尾氏には懸念があった。「5年後にいわゆる『平成の大合併』をひかえた時期で、3セク施設の民営化が予想されました。そうなると競争が激化する。そこで起業2年目にして、業態転換を決意しました。」

そして考えたのが、業務用バスマットの販売である。そのため、いくつか製品を仕入れて試してみた。「どれもまったく満足できませんでした。そこで、いいものがないなら自分で作ろうと思いました。」

業務用のマットは、マット販売とそれを回収・洗濯して配達するリネンサプライ業とが組み合わせて提供されてきた。そのため、機能が向上し洗濯の回数が減れば、リネンサプライの売り上げ減少につながってしまうという矛盾があった。結果的に、ユーザーの使い心地や従業員の作業負荷軽減などが後回しにされていた。そうではなく、ユーザーの心地良さや従業員の負担軽減を目指すという当たり前の業態を目指したのが、バースケアの製品である。

バースケアの主力商品である「足踏み速乾バスマット」は、二層分離一体化構造により、吸水性能を高めながら速乾性も実現。抗菌機能も備えており、清潔で使い心地のいいバスマットを実現している。軽量なので運ぶのが楽なうえ、従来のタオル地マットに比べて交換回数が約5分の1で済むと、施設従業員からも好評だという。また、抗菌サウナマット「プロ仕様+α」は、サウナ室の臭いの原因となるアンモニア臭などを30分以内に80%以上分解。乾燥も早く軽量なので、臭いやマットの不快感によるクレームが減り、交換回数の減少など作業負荷の軽減に大いに役立っている。
今までにない品質的で圧倒的な支持を得た「足踏み速乾バスマット」

◆事業の飛躍
1社の繁栄ではなく、ネットワークを駆使して、日本のお風呂文化をよくしたい。

バースケアは、飯尾氏を含めて正社員が2人というまさに小規模企業だ。しかし志は高く、業界ナンバーワンを目指している。

「目指したのは機能性マットなので、見た目ではなくあくまでも機能で優劣が決まります。ニッチな業界でもあるし、いいものを作ればナンバーワンになれるかも、とも思いました。」

そして現在、その地歩を着々と築きつつある。業務用マットを製造する主な会社は、バースケアを含め5社。そのうちトップシェアを誇ってきた会社が、最近市場から撤退したという。そして、業界最古参企業を含む2社とは、もはやライバルではなくパートナーとなっている。

「1社には当社の製品を売ってもらっており、もう1社にはOEM提供をしています。」

代理店は約10社あり、現在拡大中だ。小規模なバースケアにとって、自社単独で売るには限界がある。そこで、顧客から直接問合せがあっても代理店を通すなど、代理店との関係を良くするよう努めている。また、代理店以外にも、試作品の実験を取引先の実店舗で実施させてもらうなど、独自のネットワークは広い。バースケアが目指すのは、単なる自社だけの繁栄ではない。

「きれいごとかもしれませんが、良い製品をできるだけ広く世の中に届け、日本のお風呂文化をよくしたいと考えています。」

◆今後の事業展開
機能とコストのバランスを見ながら、市場に受け入れられる製品を出していく。

製品改良にも余念がなく、国や県の助成を受け、研究機関と共同研究を行うなど、多くのチャレンジを続けてきた。

「8回チャレンジして成功は2回です。特許もいろいろ取っていますが、特許をとったからそれにしがみ付くということはしません。ダメなら捨てる勇気をもって、市場に受け入れられる製品を目指しています。」

バースケアが目指すのは、「究極」のマット。家庭用のバスマットに「吸極のバスマット」と名付けて商標登録を取るほど、そのこだわりは強い。以前には、研究機関との共同研究で徹底的に機能を高めた試作品を製作したことがある。しかし、お蔵入りになったという。

「販売価格を計算したところ1枚9万円になってしまいました。これでは売れません。やはりお客さまに満足して使ってもらうためには、機能とコストのバランスが重要です。研究は多角的に進めつつ、販売するかどうかは、その都度市場をみながら判断しています。」

バースケアは、間違いなく日本のお風呂文化を変えつつあるようだ。

——————————————————————————–
【株式会社そらのした(山梨県富士吉田市)】

(アウトドア用品の物品賃貸業)

〈従業員4名、資本金900万円〉
代表取締役室野孝義氏

「世の中になければ自分でやろう」「富士登山ブームで利用者が急増」

◆事業の背景
高価なテントを安価に利用したい。それがレンタル事業を始めるきっかけ。

株式会社そらのしたは、平成24年3月に設立された。代表取締役の室野孝義氏が趣味で登山へ行くためにテントを購入したことが、会社設立のきっかけだった。1~2名用のテントが5万円以上もすることを知り、もっと安価に入手する方法はないものかと、インターネットで調べるようになったという。ところが、当時はまだテントなどの登山道具をレンタルするビジネス形態が存在していなかったので、高価なテントを購入するしか選択肢はなかった。

それならば、自分で登山道具などのアウトドア用品をレンタルでリーズナブルに提供する事業を立ち上げようと考えた。しかし、その頃は機械エンジニアとして会社勤めをしていたので、あくまでも副業としてインターネット上にアウトドア用品のレンタルショップを開設し、利用者にレンタル商品を宅配便で配送して引き渡すサービスを始めた。

だが、やるからには成功させたい。そこでまず、ターゲットを女性に絞った。女性は金銭感覚が鋭いので、登山道具を売価の1/5~1/10でレンタルできれば、必ず利用するはずだと確信していた。また、初心者でも安心してアウトドアが楽しめるように、必要な用具を一式まとめてレンタルするセット商品を用意することも最初から決めていた。

「お客さまとの唯一の接点はECサイトなので、そのデザインやレイアウトには徹底してこだわりました。当時流行していた“山ガール”と呼ばれる女性登山愛好家に興味を抱いてもらえるように、かわいらしい感じのデザインにすることが一番のポイントでした。」

◆事業の転機
富士山の世界文化遺産登録を機に、富士登山に焦点を当てた品揃えを強化。

登山道具を中心としたアウトドア用品のレンタルサイトを開設するに当たり、室野氏が最も苦労したことは、アウトドア用品メーカーの理解を得ることだった。アウトドア用品をレンタルで安価に提供されると、自社の製品が売れなくなってしまうとメーカーサイドが危惧するのではないかと考えたからだ。しかし室野氏は、女性の利用者が増えることで、むしろアウトドア用品の市場の裾野が広がるとアピールし、徐々に協力してくれるメーカーを増やしていった。

「当初は、通常の小売価格で商品を大量に仕入れていましたが、当社のビジネスモデルに共鳴していただいたメーカーさんがボリュームディスカウントで商品を提供してくれるようになったことで、仕入の負担が軽くなりました。」

そうしたなか、大きな転機になったのが、平成25年に富士山が世界文化遺産に登録されたことだった。このことで、海外からも富士登山をする人が増えたことから、室野氏は事業拠点を従来の大阪から富士吉田市へシフトし、「始めての富士登山セット」など富士登山に焦点を当てた品揃えを増やしていった。このタイムリーな決断が功を奏し、利用者がにわかに増え始めたため、富士山周辺に直営店や協力店を設置し、ECサイトで注文した利用者が、レンタル商品の受け取りや返却が手軽に行える体制も整えた。

◆事業の飛躍
クリーニング師の資格を取り、徹底した品質管理で他社と差別化。

副業として始めたアウトドア用品のレンタル事業が、今では本業へと発展。創業以来、毎年2~3倍のペースで売上が伸び、現在の年間売上は約9,000万円に上る。事業規模を拡大するに当たっては、中小企業庁の「ものづくり補助金制度」なども役立ったという。

だが、その一方、同じようにECサイトでアウトドア用品のレンタル事業を展開するライバル会社が増え、それらといかに差別化を図るかが大きな経営課題となっていた。

そこで、室野氏が真っ先に力を入れて取り組んだのが、レンタル商品のクリーニングとメンテナンスを徹底して行うことだった。室野氏自らクリーニング師の資格を取得し、本社内にレンタル商品をクリーニングするための設備も整えた。

「レンタル商品は、常に清潔であることが重要です。汚れや匂いが無いことはもちろん、品質面では絶対の自信があります。」

実際、同社のレンタル商品は手入れが行き届いていると大変好評で、利用者からお礼のメールや手紙が数多く寄せられており、同社の貴重な財産になっているという。
富士吉田市の本社にはクリーニング設備が完備されている

また、登山セットをレンタルした利用者が無償でダウンロードできるスマートフォン専用アプリ「富士山登山おたすけアプリ」を開発した。このアプリは、たとえば、富士登山をしている利用者の位置情報をもとに頂上までの距離を確認したり、天気に応じたアドバイスが自動的に配信されたりする仕組みになっている。こうしたきめ細かなサービスの提供が同業他社との差別化となり、リピーターが増えている。
レンタル商品の試着。子どもの利用も多い・富士山の山頂で記念撮影する利用者

◆今後の事業展開と課題
急増する外国人登山者への対応が課題。新規事業も立ち上げ地方の雇用創出を推進。

富士山への外国人登山者は毎年増え続けている。既に登山者の1~2割を外国人が占めるようになったが、室野氏は今後4割近くまで増えると予想。そのため、英語と中国語(簡体字・繁体字)のECサイトを用意し、外国語が話せるスタッフを増やすことが当面の課題だという。

富士登山は7~9月の夏場がピークで、以前は売上も夏場に集中していたが、季節に応じたレンタル商品のラインナップを拡充することで、年間を通して安定した収益を得られるようになっている。今後も夏場以外の利用者を増やす品揃えに力を入れていくとのことだ。

加えて、平成27年10月からアウトドア用品のメンテナンスサービスもスタートさせた。これはレンタル商品のクリーニング設備を活かした新規事業で、個人や企業が所有しているアウトドア用品を預かり、クリーニングやメンテナンスを施して返却するというもの。同社が最も得意としている業務なので、今後大きな事業の柱に発展する可能性がある。

「現在は全てのものが東京に一極集中していますが、インターネットを活用すれば、地方にいてもデメリットはほとんど感じません。今後は地方における雇用創出という観点でも社会に貢献していきたいと考えています。」

——————————————————————————–
【クスカ株式会社(京都府与謝郡与謝野町)】

(繊維・衣服等製造業)

〈従業員9名、資本金2,000万円〉
代表取締役楠泰彦氏

「自社ブランドを立ち上げ直販ルートを開拓して、丹後ちりめんの用途と販路拡大に邁進」

◆事業の背景
日本最大のシルク織物産地で、丹後ちりめんの再興を考える。

300年以上も前から日本最大のシルク織物産地として知られる京都府北部の丹後地方。丹後ちりめんとして知られる織物は白生地のまま京都市室町の問屋に出荷され、着物に仕立てられ全国で販売される。白生地の生産者のほとんどが下請けだ。3代続くクスカ株式会社も、下請けとして約70年にわたって丹後ちりめんを生産してきた。

丹後ちりめんは、経糸(たていと)に撚り(より)のない生糸、緯糸(よこいと)に1メートル当たり3,000回前後の強い撚りをかけた生糸を交互に織り込み生地にして精練することで糸が収縮し、緯糸の撚りが戻り、生地全面に細かい凸凹状の「シボ」ができる。シワがよりにくく、しなやかな風合いに優れ、染め上がりの色合いが豊かで、しかも深みのある色を出すことができる高級絹織物だ。

着物産業が好調だった高度経済成長期には、高級絹織物である丹後ちりめんがもてはやされ我が世の春を謳歌していた。しかし、バルブ崩壊やリーマン・ショックで着物の需要が減り、丹後ちりめんは、昭和46年に年間約1,000万反を生産してピークに達したが、現在では50万反を切り最盛期の1/20に激減。
「下請けのままでは先細る一方なので、平成20年に家業を継いだ際に下請け依存から脱却するために、独自ブランドの立ち上げを考えました。」
約70年続くクスカの社屋

◆事業の転機
丹後ちりめんの良さを最大限引き出すために、機械織りから手織りに全面転換。

クスカ3代目社長の楠泰彦(くすのき やすひこ)氏は、中学・高校と野球に明け暮れた後、東京の建設会社に就職して住宅の外装・内装を手がけていた。ところが、29歳の時に実家に帰省した際、自社の職人が一つひとつ丁寧に丹後ちりめんを織っている姿に感動し、日本人として残さなければならないものがあると確信。30歳を機に会社を退職し、クスカの3代目として家業を引き継いだ。

「家業を継ぐ気はなかったのですが、帰省した際、実家近くの丹後の海が絶好のサーフィン・スポットであることを知り、サーフィンをしながら丹後ちりめんを作るライフスタイルもいいなと考えました。丹後ちりめんの良さをもっと広めたいということもあったのですが、いわば“不純”な動機もありました。」

着物が売れず、丹後ちりめんの明るい将来も見通せないなか、あえて家業を継ぐ気になったのは、日本や世界の海を巡る大のサーフィン好きであったからだ。何が伝統を守る動機になるか分からないが、継いだ家業の経営が順調とはいかなかった。

「生産量も減り下請けなので経営は赤字でしたが、借金はゼロ。織物のことはまったく知りませんでしたから、2年間織物の修業をしました。そのなかで、従来の大量生産向きの機械織りでは生き残れないと考え、丹後ちりめんの良さを最大限引き出すために全て手織りに切り替えることを決断しました。」

シルクは人間の肌と同じタンパク質繊維なので、強い力で糸を引っ張る機械織りだと繊維にストレスをかけてしまい、本来持つシルクの質感や光沢を活かしきれない。手織りでなければシルクのポテンシャルを最大限に引き出せないのだ。当時は平成20年の北京オリンピックを控え、鉄くずの価格が上がっていることもあり、従来あった機械織り機の解体費を撤去した機械の鉄くず代で相殺できたのは幸いだった。
手織りだからこそ丹後ちりめんのポテンシャルを最大限引き出すことができる

◆事業の飛躍
下請け依存から脱却するために、独自ブランドを立ち上げ直販ルートを開拓。

銀行の借り入れや京都府の支援を受けて、平成21年、手織り機を3台、職人を2人採用し新たな体制でスタートを切った。手織りはコストがかかり、従来のように問屋に安く卸すとやっていけないので、自社ブランドを立ち上げて直販することに。初めてのことなので試行錯誤することは覚悟し、メンズ雑貨の開発から取り組んだ。

「やるからには都会でも勝負できるものを作りたいと考え、丹後ちりめんの質感や光沢感からネクタイをメインにしたブランドKUSKA(先々代の楠嘉一郎からKUSKAと命名)を平成22年に立ち上げました。」

丹後ちりめん織物史上初の下請け依存脱却の第一歩を踏み出した。周りからは好奇の目で見られたが、楠氏は気にしなかったものの、自分でデザインした初めてのネクタイはまったく売れなかった。ブランドの知名度がない上に、クオリティも今のように高くなかったのが原因で、販路開拓も大きな壁だった。
「ものづくりに対する熱量が足りなかったと思います。また、直販ルート開拓のためにWebで取引先をリサーチして電話をかけて営業しましたが、最初は知名度もなく断られ続けました。」

それを受けて、更にシルク素材を活かし切る本質的なデザインを行うことに取り組んだ。そして平成23年、初めて大手セレクトショップとの取引が始まるとともに、小売店のバイヤーに向けてホームページやSNSでリアルな現場を伝えて差異をアピールしたことが効いて徐々に取引先が広がり、売り上げも伸びていく。

「2年間は赤字でしたので追加融資を受けながら踏ん張り、ブランドを立ち上げてから3年目にして黒字になりました。今では小売店での知名度も上がり、セレクトショップや百貨店、大手航空会社、高級ブランド店など、販路も広がりました。」

◆今後の事業と課題
5年単位で展開を考え、世界に向けてブランドを発信。

「今後はメンズのマフラーや洋服、自社のテキスタイルを活用した椅子やソファのシート、スニーカーなどの新たな用途を開拓し、新たなマーケットが求めているものを提供したいと考えています。」

その一環として平成27年12月、京都烏丸三条通りに、丹後の海・山・川が織りなす自然のなかで培われた絹織物文化をテーマにした直営店KUSKA Show Room &Concept Shopをオープン。また、新たな取り組みとして、上海に拠点を持つグローバルブランドとコラボし、KUSKA のテキスタイルを昇華させた家具も販売するなど、世界のマーケットも視野に入れている。

「5年で売上2割増という長期プランのビジネスモデルを考えており、20年かけてブランドの持つ意味と価値を育てていきたいと思います。」

グローバルマーケットを視野に入れた楠氏のチャレンジは、下請依存からの脱却を考えている中小企業の経営者にとって大きな励みになるに違いない。

——————————————————————————–
【株式会社のうえんプランニング(千葉県袖ヶ浦市)】

(飲食業)

〈従業員5名、資本金100万円〉
代表取締役内山真琴氏

「主婦目線の経営が共感を呼び、毎日行列のできる繁盛店へ変身」

◆事業の背景
バブル崩壊で経営状況が悪化した母の店を引き継ぐ。

「のうえんカフェ」が位置する袖ケ浦市は千葉県のほぼ中央、東京湾沿いの町だ。東京湾アクアラインや東関東自動車道館山線の開通などもあり、羽田空港から高速バスで最短22分というアクセスも魅力。周囲にはゴルフコースも多く、株式会社のうえんプランニングの代表取締役である内山真琴氏の母、斎藤てる氏がゴルフ帰りの客に飲み物や軽食を提供する店をオープンさせたのは、今から25年ほど前のこと。まさに、バブル経済真っ盛りの頃だった。店に隣接してグラウンドゴルフや8ホールのショートコースも設置し、当時はかなりの賑わいを見せていたという。

「しかしバブルの崩壊以降、徐々に経営状況が悪化し、私が引き継いだ頃には、ほぼ開店休業状態でした。」と語るのは、2010年に店を継いだ娘の内山氏だ。

「とはいえ、勤めを辞めて結婚して以降ずっと主婦をしていた私には、経営ノウハウもマーケティング知識もありません。そこで、徹底して主婦目線を貫いた等身大の経営。つまり『自分にとって居心地の良い店を作ろう』と考えました。」

こうして、子どもを小学校に送り出した後、あるいは就学前の幼児を連れて、主婦が気軽に集えるコミュニケーション・スペース創りが始まったのである。

◆事業の転機
主婦としての感覚を大切にして、「自分にとって居心地の良い店」を目指す。

そこで、店舗リニューアルを決意。改めて「自分にとって居心地の良い店とは?」と問い返してみると、「美味しくて安心できる食事がリーズナブルな価格で提供される店」、そして「友だちや家族と落ち着いて長居することができる店」だった。冷凍食品や添加物などを廃し、地元の野菜をメインにしたメニュー構成で、ヘルシー指向の手作り料理にこだわりたいと考えた。さらに、「長居できる店」とするため、テーブルとテーブルの間隔を空け、テーブル間を隔てるついたて式のパーティションの丈も高めにして、視線を遮る工夫を施した。また営業時間も、主婦が来店しやすいランチタイムをメインに、11時30分から18時の時間帯とした。

「とはいえ、再出発に際してそれほど予算をかけるわけにはいきません。新しくしたものといったら、このパーティションとカーペット敷きだった床をナチュラルテイストのフローリングに貼り替えたこと、冷たい感じの蛍光灯照明を、暖かみのある白熱球に替えたことくらいです。さらに、店舗奥の倉庫だった10坪強のスペースを座敷席にして客席数を倍増し、合計12卓・最大60人の店にしました。」

また、大半の客が車で来店する立地を考え、駐車場スペースも十分確保した。ここでも、車庫入れが苦手な女性への気配りを忘れず、あえて一台ずつの線を引かず「止めやすい場所にご自由に。」というスタンスが貫かれた。

一方、女性や子どもにきづかったヘルシーな手作り料理は、当然コスト高になる。

「手作りにこだわっているので、オープンは11時30分ですが、スタッフは朝の6時から仕込みに入っています。また食材を吟味した結果、最大提供数は150食。原価率も概ね50%となっています。」

飲食店経営の本などは、いずれも「原価率を30%以下に抑え、回転率向上を目指せ。」と教えている。「のうえんカフェ」は、まさにこの基本と正反対の動きで再スタートを切ったのである。
「のうえんカフェ」の外観

◆事業の飛躍
「主婦目線」を徹底した経営方針で、半年後には「行列のできる店」に成長。

内山社長自身の「主婦目線」を徹底した経営方針が効を奏し、開店してまもなく連れ立って来店するお母さんたちが増えていった。

「主婦のクチコミ力は思いのほか大きく、リピーターの方が更にお友だちを連れて来てくださったり、その噂を聞いた方たちがご来店くださったりしました。特別なことはしていないのですが、開店半年で開店を待つ行列ができ始めたのです。真面目に当初の方針を貫くことが大切だと実感しました。」

「居心地の良さ。」は、「長居」を意味する。そこで更に行列が増え、待ち時間が問題になる。しかし、行列が「賑わい」を演出し、更に客を呼ぶという効果もある。

「お待ちいただいたお客さまには、『その分ごゆっくりお過ごしください』という姿勢で、ご接待しています。『待った時間におつりがくるくらい、十分落ち着ける』というお声をいただくと、嬉しいですね。」

また、スタッフが食器を下げたり水をサービスしたりする際にも、タイミングを見計らい、会話や団らんを妨げないように指導している。

そのような近隣の評判が反響を呼び、テレビやラジオ、新聞、雑誌などの取材が相次いだ。特にテレビは影響力が大きく、オンエア直後は番組を見た人が県外からも押し寄せ、なかには広島から車で駆けつけた人もいたほどだ。

「放送直後は特に混み合いますので、地元の常連さんは遠慮して、しばらく様子見してくださいます。」

平日は来店客の9割以上が女性だという「のうえんカフェ」は、徹底した主婦目線の方針に共感した「ご贔屓」の女性ファンに支えられているのである。

また手作りにこだわったランチメニューは、提供スピードや効率を考えて5品に絞り込まれており、人気の「ロールキャベツグラタン」と「チキンカツ南蛮」が定番的固定メニュー。あとの3品は、その日の素材や季節のテーマに沿って、日替わりとなっている。5品とも量もたっぷりだが、女性たちはペロリと平らげるという。
ランチメニュー・一番人気「ロールキャベツグラタンセット」

◆今後の事業展開と課題
物販にも注力し、地域の活性化に貢献したい。

さらに、ランチを満喫した主婦たちの「主人や子どもたちにも食べさせたい。」という声に応え、お総菜のテイクアウトも実施。併せて、手作りのスコーンやプリンなどのスイーツをはじめ、地元の農家と連携しハチミツや落花生、季節の野菜などの農産物も販売している。

「『袖ケ浦ブランド』として地元の産物の認知度を上げ、全国区にしたいと思っています。今後、一緒に商品開発をしてくれる同年代の女性を採用し、『のうえんカフェ』のラベルで加工品を生み出していきたいとも考えています。」

実は、規格外の野菜や間引き野菜なども、調理法次第で美味しい料理やおやつに変身させられる。地元の農家の人たちは、そのような知恵をたくさん持っている。

「農家ならではの知恵を掘り起こしながら、私たちが生産者と消費者を架け橋するハブになって、袖ケ浦の活性化に貢献していきたいと思います。」

内山社長の夢は、ますます広がっていく。

——————————————————————————–
【有限会社 佐藤商店(神奈川県横須賀市)】

(農水産物加工・販売業、飲食業)

〈従業員1名、資本金300万円〉
代表取締役佐藤国久氏

「有料の日本茶試飲専門喫茶店を開設」「日本茶販売と地産乾物のネットショップで地域を活性化」

◆事業の背景
コーヒー店開店が夢だった。家業を継ぐことでお茶の世界へ。

ペリーの黒船来航であまりにも有名な浦賀。当時、蒸気船と上喜撰を掛けた狂歌で、「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」と唄われた。上喜撰とは宇治の高級茶のこと。浦賀は、もともとお茶に縁があったのかも知れない。その浦賀に、日本茶インストラクターである佐藤社長が経営する日本茶専門店、喫茶「茶井(ちゃい)」はある。

「茶井」の創業は大正13年まで遡る。ここ浦賀で祖父が乾物とお茶の店を開業し、その後、父親の代では戦後需要により生鮮食料品から日用品まで扱うミニスーパーマーケットとなった。昭和も終わりになると、コンビニエンスストアなどの台頭により、新たな業態変化が求められていたものの、父親の体の不調や、3代目として佐藤氏が家業を継がないと宣言したこともあって、店はそのままの形で続けられていた。

一方、佐藤氏は中学生の頃からコーヒーが好きで、大学の時にコーヒーを自分でブレンドする先輩に出会ったことがきっかけで、ますますコーヒーの世界にはまっていった。そして、ある大手コーヒーチェーンに就職することになった。30歳の時には、念願であったカフェを出すべく退社し、準備を始めた。しかしながら時はバブルの崩壊期、なかなか良い物件が見付からず、とはいえ、その間遊んでいるわけにもいかず、家業を手伝うことに。それがコーヒーから日本茶の世界に進む分かれ道となった。

◆事業の転機
日本茶インストラクターの資格を取得。日本茶カフェ・日本茶専門店「茶井」の開店。

店の手伝いといっても取扱商品についての知識がなくてはお客さまに説明もできない。そこで、佐藤氏は乾物類を中心に勉強を始めた。その頃にはインターネットも普及し始めており、店で扱っている乾物やお茶の生産履歴を調べてみた。しかし、残念なことにお茶の生産履歴が分からない。問屋も教えてくれない。それでは、お茶の仕入れを自分でやろうと、日本茶の勉強を本格的に始めることとなった。展示会で偶然出会った方や、足繁く通った産地の方々から、お茶の奥深さを知らされたという。「この感動をお客さまに伝えたい、安全なお茶と美味しい入れ方両方を同時に提供できる日本茶カフェをやりたい。」と、佐藤氏は決意を新たにした。

平成15年、難関の日本茶インストラクターの資格を取得。また、引き継いだお店を取り壊して自社ビルを建設し、1階にはお茶と地元乾物の専門店をリニューアル開店。同時に念願の日本茶カフェ日本茶専門店も併設した。奥様の提案もあり、店の名前も新たに「茶井」と命名することにした。

店頭での乾物は、地元横須賀の長い付き合いのある漁師から、直接買い付けたワカメ・昆布・ひじき・海苔など、良質な商品を揃えた。日本茶は佐藤氏が全国各地の産地まで直接足を運んで仕入れ、厳選したものを店頭に並べた。

また喫茶店の内装は、インテリアや照明などにも佐藤氏の趣向が凝らされている。壁の絵には、明治時代のアメリカ向け緑茶の茶箱のラベルをあしらい、カウンターやテーブル席が13席ある店内には、和陶器のギャラリーも設置した。そもそも日本のお茶屋さんでは、店頭で無料のお茶を試飲させているところが多いが、佐藤氏は思い切ってそれを有料にした。より深いお茶の味と知識を知って欲しいという願いがあったからだ。そうした思いを込め、平成15年4月、ついに「茶井」をオープンする運びとなった。
自社ビル「さとう商店ビル」の1階に店舗を構える

◆事業の飛躍
ネットショップサイトを構築。乾物の売上が飛躍的にアップ。

当初、「茶井」の新たなコンセプトは、なかなかお客さまに受け入れられなかったが、お茶請けを工夫するなどの努力の結果、お茶の売上は喫茶とともに伸びていった。また、4年前から喫茶にコーヒーをラインナップしたことで、お客も倍増していった。

「昔、コーヒーショップにいた経験が、多いに役立ったと思います。」

しかしながら、乾物の売上は伸び悩んでいた。そこで、中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」を活用して、ショッピングサイトを構築することにした。そうすると、「茶井」の広報環境が一変した。ホームページでのショッピングサイトの構築、外国人向け情報発信サービス「英語版ヨコスカイチバン」への掲載、ネットショップサービス「おもてなしギフト」への掲載、大手ショッピングサイトへの出店と、立て続けにネット戦略を実行に移した。また同時に、消費者に受け入れやすい商品となるよう内容やパッケージを一新した。

こうした努力に、すぐさまマーケットの反応があった。特に乾物は驚くほど注文が殺到した。昆布などはおめでたい商品のため、結婚式などの引き出物として大量の注文があるという。「お店の成長とともに、地域振興の一端が担えたことが、たいへん嬉しいことでした。」
地元の乾物や良質なお茶などの商品を取り揃える佐藤商店

◆今後の事業展開と課題
ネットショップでのお茶販売の強化。夢は浦賀の街の活性化。

ネットショップという新たな展開は、「茶井」にとって想像以上のインパクトがあった。しかし佐藤氏には、今後のことを考えるといくつか不安なことがある。その一つは、地域の特産である海産物は気候に左右されることである。十分な供給がなければ、お客さまに見放されていくという不安がある。事実昨年は、人気の「はば海苔」が採れなくて、今年は十分な供給が難しいという。もう一つは、ネットショップでのお茶の販売が、乾物ほど伸びていないことである。お店でのきめ細かなお茶に対するサービスを、ネットを通じてどう伝えるかが今後の課題である。

浦賀という町は、極めて歴史的に貴重な街である。しかしながら、造船所跡地利用や観光地開拓などがまだ十分に進んでいるとはいえない。今後、街の活性化が進めば、一層賑わう街になるはずである。その時こそ、「茶井」の真価が問われることになる。佐藤氏は、「どんな大手の競争相手が現れても絶対にも負けない自信があります。そうした将来を夢見て、一日一日精進を重ねていきますよ。」と、笑顔で話してくれた。

——————————————————————————–
【JAPAN総合ファーム株式会社(大阪府富田林市)】

(農産物加工・販売業)

〈従業員2名、資本金200万円〉
代表取締役中筋優美氏

「子どもや世界の人も安心して食べられる、添加物を一切使用しない食品を開発・販売」

◆事業の背景
金剛山系に囲まれ育つ新鮮な野菜を使った、曾祖母の漬け物を受け継ぎきたい。

梅田から約1時間の富田林は、大阪で一番高い金剛山(1,125メートル)の麓にある日本有数の野菜産地だ。一級河川の石川の水で野菜をハウス栽培している、創業100年を越えるナカスジファームはナスとキュウリの生産では日本最大級(年間ナス250トン、キュウリ250トン)の農家だ。

100年以上野菜を作り続けて肥えた土壌で栽培した野菜は、どこにもない芳醇な味を醸し出す。その野菜を使った食品を開発・加工・販売しているのが、JAPAN総合ファーム株式会社だ。代表取締役の中筋優美氏は次のように話す。

「主人のナカスジファームで採れた新鮮な野菜で作った曾祖母の漬け物を食べた時、美味しいけれど辛いのが玉に瑕でした。そこで、子どもや若者にも食べられる浅漬けが欲しいと思いました。でも浅漬けにしたら、毎日食べると美味しくない。やはり、曾祖母の漬け物は辛いけど美味しいのです。何とか辛くない美味しい漬け物ができないものかと考えました。」

調べてみると、同じ野菜を使っていても浅漬けが美味しくない理由は、熟成不足だった。曾祖母の漬け物は採れた野菜をその日のうちに漬け、かつ保存食にもなるよう何か月も寝かせていたことが判明する。

◆事業の転機
漬け物の安全性をとことん追求しながら、リーダー育成塾で経営ノウハウなどを学ぶ。

曾祖母の漬け物を受け継いでいきたいという思いから、中筋氏の食品加工の研究・開発が始まった。看護師をしている時にO-157に苦しむ患者を見てきたので、漬け物の安全性をとことん追求した。

「加工食品には食中毒防止のために次亜塩素酸やうまみを出す添加物などを使うのですが、子どもや病人も安心して食べられるよう、添加物を一切使わない安全で美味しい漬け物を目指しました。曾祖母のやり方で作った漬け物は、漬け置きして1か月くらい熟成する過程で食中毒菌は死滅します。そこから塩分を抜いて仕上げていきます。」

試行錯誤を重ねた末、平成26年3月、無添加・無着色・無香料・化学調味料を一切使用しない安全で美味しい、ナスとキュウリのピクルスが完成する。しかし、開発に熱中していたため、販売のことまでは考えていなかった。しかも、経営ノウハウやマーケティングも知らない上に、資本も販路も無いためまったく売れなかった。

そこで、大阪府の農業会議所の紹介で、農林水産省補助事業の「女性農業次世代リーダー育成塾」にエントリーして、100人の応募者のうち20人の採択者のなかに入り学び始める。東京・能率協会に8か月通い、マーケティングや経営ノウハウなどを学びつつ、平成26年夏に富田林商工会の地域創生ファンドの融資を受け、本格的な商品開発と売り方の検討を始める。

◆事業の飛躍
3年かけて自信をもって勧められる、安全で美味しいピクルスが完成。

解決すべき課題はたくさんあった。まず、国産の野菜を使っていては、低価格の海外産野菜を使った漬け物にかなわない。しかし、実家で作ったナスやキュウリはハウス栽培なので害虫も付きにくく、最小限の農薬で美味しい野菜を手に入れることができ、自家製なのでトレーサビリティも確保できる。有機肥料をふんだんに使い農薬を最小限にしたナスとキュウリは、安全で美味しいピクルスの素材としては申し分ない。

次に最も大切な安全性と美味しさを実現するために、試行錯誤を繰り返した。旬の野菜の味を引き出しながら添加物を一切使用せず腐敗させないための長期熟成の試みに2年、さらに化学調味料を使用せず体にいい商品で美味しいといわれるまでに1年、計3年をかけて自信をもって勧められる商品が完成した。

しかし、仕入れは安くとも、安全で美味しいものを作るため熟成期間が長く生産コストがかかっている分、販売価格は高くなってしまう。価格の高さを納得してもらえなければ、買い物客は財布の紐をゆるめてはくれない。

「リーダー塾で学んだことで、いい商品を作るだけではダメだということを思い知らされました。時代の流れに歩み寄り、お客さまのことをよく考えなければなりません。安心を本当に追求した商品は少ないので、その点を理解してもらえれば価格は高くとも買ってくださると確信していました。」

平成27年3月のフーデックスジャパンで企業の商談会に参加し、必死で販路開拓に取り組んだ。その必死さが通じたのか、最初に取り扱ってくれたのは大手百貨店とナチュナルマーケットだった。

「いい商品なので長い取引にしましょう、一緒にやりましょうと言ってくださいました。思ったとおり、消費者の方に商品の良さを説明すると購入してくれてリピーターになり、徐々に広がっていきました。」
大坂府富田林産のナスとキュウリなどを使用しふんだんに白ワインを使った無添加のピクルス
同社に新鮮野菜を供給するナカスジファームの看板

◆今後の事業と課題
夢は大きく世界に向けて、日本の伝統的な食品を届けたい。

自信をもって世に出したピクルスは、大阪ブランド産品の普及やブランドイメージ向上に貢献した優れた活動を表彰する、大阪府の「平成27年度大阪産(もん)五つの星大賞」を受章するなど、その良さが評価され徐々に浸透している。「世界への発信を見据えて、社名にJAPANをつけた。」と話す中筋氏の夢は、日本の伝統的な食品を世界で販売することだ。

そのための準備は怠りない。ナカスジファームで働いている9人のベトナム人にピクルスを食べてもらい、自家製ニンニクや香辛料を加えることで、外国人にも受け入れられるピクルスも開発した。

「ラベルも最初から多言語対応とし、漢字、カタカナ、英語表記にしています。今後はピクルスとそのほかの野菜セットをインターネットでも販売する予定です。また今後は、外国人バイヤーにも紹介して、海外での販売も始めたいと考えています。」

JAPAN総合ファーム株式会社のたたずまいは小さいが、日本の伝統的な加工食品を世界に普及するという夢は大きい。中筋氏のチャレンジは始まったばかりだ。

——————————————————————————–
【株式会社 磐城高箸(福島県いわき市)】

(高級割り箸の製造・販売)

〈従業員6名、資本金990万円〉
代表取締役高橋正行氏

「林業復興の一助となることを目指し、被災地支援活動の一環として高級割り箸を開発」

◆事業の背景
林業復興のとっかかりになるよう、割り箸製造のためにいわき市に移住。

全国の森林資源が豊かな中山間地は過疎化が急速に進行している。昭和30年代にはスギやヒノキの人工林の造成が政府の政策として進められたが、昭和40年代に入って、安い外材の輸入が増え、木材価格が低迷、林業は大きな打撃を受けた。神奈川県横須賀市で生まれ育った高橋正行氏は、平成20年、祖父がいわき市南部の造林会社の役員だった縁で、山仕事をして林業復興の役に立ちたいと思い、小さい頃から通い慣れていた勿来(なこそ)にやってきた。

「2~3か月、山林の下草刈りをやったのですが、スギの売先を探さないとダメだと思い、一度横須賀に帰りました。その時、立ち寄った書店で偶然見付けたのが『割り箸はもったいない?』(田中淳夫著、ちくま新書)という本でした。」と高橋氏は語る。

同書には、住建材用途ではスギよりヒノキが高級とされるが、割り箸はスギが最高だとあった。割り箸の発祥は奈良県吉野だが、現在では中国からの輸入が95%を占め、国産品は5%にも満たず産業としては既に死んでいる。

しかし、高橋氏は日本発祥であることに加えて、スギは日本固有種で、学名「クリプトメリア・ジャポニカ」は「隠された日本の財産」を意味することから、割り箸製造が林業復興の手がかりになるのではないかと考えた。そして、著者の田中氏に相談しながら、各地の割り箸工場を見学、検討を重ねた上で平成22年8月、いわき市に移住し起業した。
製造・販売している箸の一部

◆事業の転機
東日本大震災で支援してくれたボランティアグループと一緒に商品開発。

祖父のいた造林会社で50年以上働き、「高橋さんの孫だったら。」と手伝ってくれた相談役の鳥居塚実氏と一緒に高橋氏は割り箸の試験製造を開始した。ようやく満足いく出来栄えになって、出荷しようとした矢先の平成23年3月11日、東日本大震災が発生。原発事故の影響で、卸業者への出荷契約は全て解除され、高橋氏自身も10日ほど実家に避難した。

3月中にいわき市に戻り、4月5日には福島県ハイテクプラザで製品の放射能表面線量検査を行い、問題がなかったため製造再開の準備を進めた。しかし、4月11、12日の両日に発生したいわき南部を震源とする大規模な余震で、製造設備が壊れてしまった。余震から2週間ほど経った4月下旬、復興支援のボランティアから「手助けしたい。」と連絡があり、翌週には現地に来てくれた。

「『EatEast!』という10人ほどのデザイナーのグループで、彼らは裸箸3,000膳を自分たちのお金で買い取り、彼らがデザインしたパッケージに入れて、チャリティーイベントで販売、売上を日本赤十字社に全額寄付しました。それを見て、『何の関係もないのにすごいな』と感心しましたし、割り箸の高付加価値化にはデザインが重要だと薄々気付いていたこともあり、一緒に商品開発を目指すことにしました。」

高橋氏は被災3県の間伐材で箸を作りたいというアイデアをEatEast!に伝えたところ、彼らは平成23年度全国間伐・間伐材利用コンクールの募集があることを見付けた。そこで、彼らに急いでパッケージデザインを作成してもらい、7月下旬の締切りに何とか間に合うように応募した。

◆事業の飛躍
被災3県のスギの間伐材で割り箸を製造。三つの賞を受賞し大きな注目を集める。

応募製品は、「3県復興 希望のかけ箸」と名付けた3本の箸のセットで、津波の被害が甚大な岩手県陸前高田市の気仙スギ、本震で震度7を記録した宮城県栗原市の栗駒スギ、余震被害がひどい福島県いわき市のいわきスギの三つを使い、広大な被災地に想いを馳せることができるようにした。それがコンクールで3位に入賞、実質的には高橋氏が一人で箸を製造していたこともあって、大きな話題になりメディアにも取り上げられた。

「希望のかけ箸」は5%にも満たない国産割り箸で、高級割り箸として工夫されていること、工程の一部作業を障がい者施設に委託していること、製造工程で出る端材は薪ボイラーで燃やして乾燥を行い、石油系燃料を使わないことなども評価され、平成25年にはグッドデザイン賞、平成26年にはソーシャルプロダクツアワード、平成27年にはウッドデザイン賞を受賞している。

「割り箸屋がグッドデザイン賞の受賞となるのも初めてで、私としては楽しく商売をやることができているので、それで十分です。『希望のかけ箸』で知名度を上げながら、企業や自治体、大学などからのノベルティの受注を中心に、息長く販売していきたいと考えています。」
割り箸はスギの間伐材を材料にしている

◆今後の事業と課題
事業を継続して林業振興に貢献し、中山間地住民の誇りを取り戻す。

磐城高箸(いわきたかはし)はいわき市内の林業家から間伐したスギを直接購入し、付加価値の高い割り箸を一貫製造・販売しているが、「たかが割り箸」といわれることも多いという。

「割り箸はそもそも日本人が生み出したもので、それを同じ日本人が輸入に頼り切るようになって、国内の割り箸産業を壊そうとしているわけです。そういう“業”みたいなものを感じているので、事業としては大変ですが、意地でも作り続けていきます。」

そのために、磐城高箸では、割り箸の製造工程上の半製品であるスギ板を加工して箸の入れ物にし、そこに箸をはめ込んだお食い初め用の「おめでた箸」や、この地が北限となるヒノキを使った鉛筆等の企画・製造を始めた。さらに今後は、製品の選別過程で出る不良品の箸を有効利用した枕の開発も企画したいという。製品化のための資金の調達方法には、クラウドファンディングを活用したい意向もある。これらの製品が完成した暁には、東日本大震災の被災者に届けるつもりだ。

「林業の復興は水源涵養などの公益的機能だけでなく、中山間地が素晴らしい自然に囲まれた地域だという住民の誇りを取り戻すことにもつながります。割り箸づくりというごく限られた範囲の小さな取り組みですが、ともかく事業を継続させて、林業の復興に少しでも役に立ちたいと考えています。」と高橋氏は決意を語る。

——————————————————————————–
【株式会社 笠盛(群馬県桐生市)】

(刺繍加工、刺繍製品の製造・販売)

〈従業員19名、資本金1,000万円〉
代表取締役社長笠原康利氏

「140年にわたって柔軟に変化し、新ブランドの立ち上げや街づくりにも貢献」

◆事業の背景
和装から洋装へ装いの変化に合わせて、和装織物から刺繍へと業態をシフト。

株式会社 笠盛の創業は、約140年前の明治10年に遡る。織物の町桐生で代々織物業を営み、戦後まもなく繊維産業が大いに潤った時期、「笠盛献上」という着物帯が大ヒット。当時は、ほかの機屋を加えた「笠盛組」という協同組合で作った帯の出荷額が、一時は3割を占めるほどだった。しかし、人々の服装が和装から洋装へとシフトしていくなかで、和装織物は徐々に衰退。織物だけでは立ち行かなくなっていく。そこで、現在笠盛の社長を務める笠原康利氏の父である先代が選択した新たな道が、刺繍であった。昭和30年代半ばのことである。

次男ながら、早世した長男に代わって跡継ぎとなった笠原氏が、大学卒業後勤めていたソフトウェア会社を辞めて入社したのは昭和48年。折しもオイルショックが吹き荒れる時期であり、笠盛の売上も半減という非常に厳しい時期であった。
「家業とはいえ、まったく畑違いの仕事に飛び込んだので、当初は右も左も分からず大変でした。そのなかでもお客さまに助けられ、多くを学びました。お客さまに紹介をしていただいて、徐々に販路を広げることができました。」

当時多く手掛けていたのは、靴下のくるぶしなどを飾るワンポイントマークの刺繍だった。
歴史が感じられる木造三角屋根の工場

◆事業の転機
海外生産を試みるものの、ものづくりは日本でと定め再出発。

その後アパレルの刺繍にシフトし、ブランドブームのバブル期にかけて躍進は続く。同じ頃、衣類生産は徐々に海外へとシフトしていった。当初は海外で生産した衣類に日本で刺繍などの加工を施す方式が一般的であったため、大きな問題はなかった。しかし、そのうち全てが海外で生産されるようになっていく。そこで、笠盛もインドネシアでの刺繍に着手。平成5年のことである。平成13年には100%子会社の工場を設立した。

「海外の企業との取引は代金回収が難しく、ガードマンとして雇っていた軍人に代金回収を頼んだりもしました。従業員も問題で、いい人がいてもなかなか続かない。満足のいく品質の材料がないなど課題が多く、結局平成17年に撤退しました。その時、やはりものづくりは日本だと痛感しました。」

そして、日本での生産に専念すると決め、改めて今後の計画を三つ立てた。まず、毎年東京で個展を開くこと。これは平成17年以来現在まで毎年実施している。二つ目が東京事務所の立ち上げで、福島の会社と平成19年に設立した。しかし、平成22年に相手の会社が撤退を決めたため、自社だけでは存続が難しく断念した。今のところ、再開のめどはたっていない。そして三つ目が、海外の展示会に出展することで、平成21年の出展を目指した。

「まさかすぐには通らないだろうと思って、事前準備のつもりで平成19年フランスのモーダモンの展示会に応募したところ通ってしまいました。ものを作っていなかったので、慌てて作りました。出発日の成田に向かうバスが朝4時発だったのですが、2時まで作り続けてパリに向かいました。」

その後モーダモンには6年連続出展。徐々に信用も確立し、今では世界的なブランド企業から発注が来るまでになっている。

◆事業の飛躍
他社製品の加工に加えて、自社ブランドを立ち上げ。

笠盛が展示会に力を入れるのは、提案型の営業を心掛けているからだ。自社の技術力を展示会で見てもらうことで、新たな顧客やジャンルの開拓を目指している。それは社員教育でも徹底しており、新入社員はたとえ営業として入社しても、約1年間は工場で徹底的にものづくりを仕込まれる。

「お客さまにとっては、我々は刺繍のプロです。要望に対してパートナーとして応対するには、生産の知識が欠かせません。」

また、社員は通常の業務とは別に分科会に所属し、各種改善活動に取り組んでいる。分科会は、新たな企画などを考える「企画分科会」、作り手の多能化などに取り組む「生産分科会」、社員教育や“整理”“整頓”“清掃”“清潔”“しつけ”の5S活動などに取り組む「人と風土分科会」の三つである。これらの活動は、基本的に業務時間内に行って良いこととなっている。

経営もオープンで、四半期ごとに発表会を開催して経営状況などを共有。この発表会では、業績のほかにも、サンクスカード(顧客への礼状)やあいさつ、笑顔など多彩な部門で表彰をし、全員のやる気を引き出す仕組みも整えている。

企画分科会などでの取り組みの成果の一つが、刺繍によるアクセサリーの自社ブランド「OOO(トリプルオゥ)」である。

「他社製品の加工は大口の受注が見込める半面、お客さまの事情に左右されます。そこで、自分たちで何か作れないかと手芸用のテープやポケット、バッグ、アクセサリーなど、さまざまな製品を試しました。そのなかで比較的反応が良かったアクセサリーで、ブランドを立ち上げました。幸い中小企業庁の『中小企業地域資源活用プログラム』に指定されたこともあり、その補助金が活用できたのも助かりました。」

「OOO」のアクセサリーは、自社のショッピングサイトやデパートなどで販売。現在では、売上高の約2割を占めるまでに成長している。
多彩な製品加工用の刺繍パーツ・刺繍とは思えない「OOO(トリプルオゥ)」のアクセサリーの数々

◆今後の事業と課題
新ブランドや街づくりなど、新たな計画に邁進。

現在笠盛では、「OOO」の成功に続き、メンズ商品など新たなブランドの立ち上げを検討している。さらに、地域の4社が合同で、インテリアの新プロジェクト「桐生クッション」を立ち上げ、今年、平成28年1月に東京青山でキックオフ展示会を実施。伝統ある織物の街づくりにつなげたい考えだ。

そして、社内環境整備で、現在特に取り組んでいるのは残業の削減だ。

「以前は繁忙期には残業も休日出勤もあたりまえでしたが、現在は毎日定時で帰る人を決めて、その人には必ず定時で帰ってもらったり、日曜はどんな繁忙期でも休んでもらったりするなど、環境整備に努めています。若い人に働き続けたいと思ってもらえなければ、会社は続きません。」

来年には、創業140年を迎える笠盛。
「昨年が会社設立から65周年ということで、今年1月に社員と家族を呼んでパーティーを開きました。人と風土の分科会が中心となって企画したのですが、とても盛り上がりました。ぜひ来年後半か再来年、次は創業140周年のパーティーをみんなで楽しみたいと思います。」

——————————————————————————–
【株式会社イズム(千葉県松戸市)】

(食品機械製造・販売・保守)

〈従業員18名、資本金1,000万円〉
代表取締役飛田秀幸氏

「『無いのなら作ってしまおう』とスタートしたポップコーンマシン作りが、海外製品の独占市場に風穴を開ける」

◆事業の背景
試行錯誤を繰り返した、日本製ポップコーンマシン作り。

テーマパークや映画館などで人気を集めているポップコーン。今ではエンターテイメントシーンを楽しむアイテムとして、大きな役割を担っている。しかし、米国生まれのスナック菓子ということもあり、20年ほど前には、ポップコーンを作り出す大型のポップコーンマシンは海外製のものしか存在しなかった。株式会社イズムの代表取締役である飛田秀幸(とびた ひでゆき)氏が大型ポップコーンマシンを製作するきっかけとなったのは、そのような状況に直面したからだった。

「高校卒業後、大手テーマパークのメンテナンスを請け負う会社でアルバイトをしていて、そこで取り扱う機械の1つに海外製の大型のポップコーンマシンがありました。海外製のポップコーンマシンは壊れやすく、修理するにも部品の調達がままならない。『なぜ、国産のものがないのだろう。無いのなら、作ってしまおう』というのが、起業を決意したきっかけです。」

平成6年、個人会社を立ち上げた飛田氏は、テーマパークのメンテナンスを請け負う傍ら、ポップコーンマシンの製作に着手した。しかし、完全オリジナルのポップコーンマシンを一から作り出す作業は容易ではなく、なかでも一番苦労をしたのはトウモロコシを炒る鍋の製作だったという。材質選びからサイズまで試行錯誤しながら、4年の歳月が費やされた。そして平成10年、飛田氏は第1号機となるポップコーンマシンを完成させた。時を同じくして、会社は資本金300万円で有限会社の登記を行った。

「1号機は海外製のものと比べ、ポップコーンの焼成時間を大幅に短縮でき、衛生面、安全面などの性能面でも優れていると、自信を持っていました。それでも、量産体制が整っていなかったため、価格は高額になってしまいましたね。」と、飛田氏は当時を振り返る。
食感の微妙な調整まで可能な最新大型ポップコーンマシン「iP-MUO1」・製作に一番こだわった、トウモロコシを加熱しポップコーンにする鍋

◆事業の転機と飛躍
日本製ポップコーンマシンがなかった理由は何か。問題解決に秘策あり。

日本の企業が大型ポップコーンマシンの製作を手掛けないのには、市場の規模があるのだという。コストをかけて商品を開発しても、テーマパークや映画館の絶対数は限られており、必然的に販売数も限られてくる。また、1台当たりの価格が高額になると短いスパンでの買い替えも期待できず、コストの回収が難しい市場なのだという。それにも関わらず、飛田氏がポップコーンマシンの販売に踏み出せたのには、ある秘策があったからだった。それは、自社と販売先との間で、ポップコーンマシンの保守契約を結んでもらうというもの。こうすることで、取引先に毎月一定額を支払ってもらう代わりに、故障した際の修理やメンテナンスを全て引き受けるという仕組みだ。この契約を結ぶことにより、イズムには商品販売後も保守契約料が支払われるということになる。

「私たちの商品は、丈夫で壊れにくいという自負がありますが、それでも故障することはあります。でも、肝心なのは壊れた時にどう対応するかだと思ったのです。新規参入の会社が一から取引先との信頼を築くためには、保守契約が最良の手段だと考えました。」

販路開拓には足かせとなりそうなシステムだったが、それでも飛田氏はこの保守契約にこだわりたい理由があった。

「販売後、商品が転売されたり、取引先が倒産したりすることも考えられます。商品が我々の目の届かないところに行ってしまい、そこで故障し、事故を起こすなどということは、絶対に避けたい。保守契約は、自社製品に最後まで責任を持つ覚悟の証だと思っています。また、現時点で大型のポップコーンマシンを製造している国内の会社は、弊社しかありません。しかし、いつ他の企業がこの市場に参入してくるかは分からない。そのためにも、オリジナルの技術が詰まっている商品の内部は見せたくない、というのも正直なところです。」

そしてさらに、この保守契約は思わぬ副産物ももたらした。

「保守契約を結んでいただくと、私たちは定期的に取引先に伺います。そこでは、ポップコーンの話に留まらず、『こんな調理器具が欲しいのだけれど、どこかで売ってないかな』などと相談を受けることもあります。そのような時、既存の製品が無ければ、『無いのなら、作ってしまおう』と、製作に取り組んだ商品もあります。お客さまとのコミュニケーションのなかには、多くのビジネスチャンスが転がっていると思います。」

取引先とのやり取りから、ポップコーンウォーマーやバターのディスペンサーなど、新商品も誕生した。また、各取引先の要望に合わせて、さまざまなスタイルのポップコーンカートを製造するなど、ニーズに合わせた柔軟な対応ができるのも、大きなセールスポイントとなっている。

◆今後の展開と課題
バージョンアップした最新機で、シネコンのシェアアップ、そして海外進出へ。

平成16年には有限会社から株式会社へ改組し、現在、同社のポップコーンマシンは、大手テーマパークやスタジアムに加え、国内のシネコンのシェア約2割を確保している。シネコンへの納入に際し、一番の課題となっていたのが商品の価格だったが、平成22年に完成した第三世代機となる「iP-MUO1」は、価格を1号機の3分の1にまで抑えることができ、大幅な導入率アップに貢献した。消費電力も海外製に比べ60%の低減化を実現し、ポップコーン焼成時間でも大幅な短縮に成功している。

「この新機種で、5年以内にシネコンのシェアを5割以上にすることが目標です。この目標が達成できたら、その次は海外進出。現在も中国などからお誘いはいただいているのですが、まだ、現地でメンテナンスを任せられるだけの人材が確保できていません。そのためにも、これからは国内外を問わず、技術者の育成、確保に尽力していきたいと思っています。」

——————————————————————————–
【株式会社イコマ製菓本舗(奈良県生駒市)】

(菓子製造・販売)

〈従業員7名、資本金300万円〉
代表取締役平口治氏

「倍率約40倍の入手困難なラムネを開発販売」「5年以内には生産量を倍増し事業承継も念頭に」

◆事業の背景
戦後の闇市が事業の始まり。職人肌の父を師に23歳で飛び込む。

購入倍率約40倍、入手困難なため“幻のラムネ”と呼ばれているラムネ菓子がある。カラフルな球状のラムネで、口に含むとピーチの香りとともに甘酸っぱさが広がる。これを製造しているのが、奈良県生駒市にある株式会社 イコマ製菓本舗。二代目である平口治社長は、朝から晩までラムネを作り続けるが、生産がまったく追いつかないという。

創業は昭和39年。創業者である平口氏の父が、戦地から戻ってすぐ、闇市で砂糖を仕入れては大阪でガムや駄菓子を作り売りしていたのが始まり。実家のある生駒に帰って来たのを機に個人事業主として創業した。

「『ピースラムネ』というラムネだけを作っていました。私は大学を卒業して就職したのですが、会社員が性に合わなくて1年で退社し、23歳から父のもとで働き始めました。父は昔気質の職人で、材料の配分も目分量。気分によって、若干、味や色に誤差がありました。私は数字できちんと配分を決めて作りたかったのですが、弟子というか下働きでしたので、何も口出しはできませんでした。」
2人だけでラムネを細々と作り、自分たちの手で取引先を探しては卸す毎日。1個売れて何十銭しか利益がないため経営は厳しく、平口氏の父親は大好きだったタバコを止めたほどだった。
1回の作業で作れるラムネは152個、それを1日700回ほど繰り返す

◆事業の転機
父親から事業を承継。キャラクター物をメインに展開。

昭和50年代に入り、大手製菓会社の社長に仕事の相談をしたところ、快く受け入れてくれた。

「下請けではありましたが、自分たちが作るラムネが全国で売られることが信じがたく、本当に嬉しかったのを今でも覚えています。その際に、自社製品の水分量を調べてもらい、配合をきちんと数字化してもらいました。その時父は一切、口を出しませんでした。」
しばらくは自社製品の販売と製菓会社の下請けを続けていたが、昭和62年、父が65歳を迎えたのを機に、37歳で平口氏が家業を継いだ。しかし同じ頃、自社製品の売上が低迷。大手製菓会社からの発注にも波が出始めてきた。

ラムネ製造の技術には自信があった平口氏は、ある日、有名なキャラクター商品を販売するメーカーに営業をした。ラムネのサンプルを見せると、とんとん拍子に話がまとまり、その後も世界的に有名なキャラクターのラムネも手掛けるようになった。売上は上がったが、キャラクターラムネは製品チェックが非常に厳しかったという。

「ありがたくお仕事をいただいていたのですが、家族経営の小さな会社にとってはリスクが高過ぎました。半年に1回、工場の状態もチェックされ、いつも及第点だったのですが、神経は使いましたし、毎日がプレッシャー。それでも10年以上続けました。」

キャラクターラムネも毎月発注数が異なるため、売上が安定しない。下請けとしてラムネを製造しながら、自社製品開発への思いは募るばかりだった。

◆事業の飛躍
型作りに試行錯誤を繰り返して1年、レインボーラムネがついに誕生。

プレッシャーを感じながらも、もくもくとラムネを作り続けた平口氏。新製品を思いついたきっかけは、平成5年のある出来事だった。

「サッカーの日本代表がワールドカップ出場を逃した『ドーハの悲劇』というのがありましたが、それがすごく印象に残りました。『これからはサッカーの時代かもしれない。サッカーに関係する商品が何かできないか』と考えるようになり、サッカーボールと同じ球状のラムネを作ったら面白いと思ったのです。」

当時、球状のラムネを作るのは非常に難しく、どのメーカーも技術を持っていなかった。型の製造業者に相談をしても「無理です。」という返事ばかり。しかし粘り強く依頼をし、一緒に試行錯誤を繰り返しながら約1年かけて型を完成させた。

ネーミングも平口氏のひらめきから。ニュース番組のスポーツコーナーで使われていた「レインボーシュート」という言葉からヒントを得て命名。「レインボーラムネ」の誕生である。

しかし、キャラクターラムネを製造していたため、レインボーラムネは1袋750グラム入りが40袋しか作れなかった。その上、販売は自社の店頭でのみ。もちろん売れるはずもなく、近所の人が買いにくる程度だった。ところが徐々に購入者が増え始め、行列ができるようになってきた。手ごたえを感じた平口氏は平成13~14年頃、キャラクターラムネの製造を止め、自社製品のみで勝負を挑むことにした。

生産量は増えたが行列も増え続けたため、平成23年からは年に2回、近隣のホールを借りて予約会を開始。2,000~2,500人が列をなすようになり、さらにテレビで紹介されたため人が殺到した。収拾がつかなくなり、平成25年からは葉書での抽選方式に変えたが、1回の当選者数3,500人に対して、約15万通の応募がある。

その一方で、ボランティアの一環として、福祉児童施設や高齢者介護施設などに納品している。また、生駒市からの依頼で平成26年から「ふるさと納税」にも協力。生駒市のアンテナショップにも卸しているという。

義理を重んじ、人情味にあふれる平口氏は、「たくさんの人に助けられて今の自分がいるのですから恩返しの気持ちもあります。」と笑顔を見せる。
出荷作業。レインボーラムネの販売は全国区になった

◆今後の事業と課題
課題は事業承継。スムーズに譲るために法人化する。

現在の機械では1日フル稼働させても10万個が限界のため、これ以上生産量を増やせない。そのため、中小企業庁の「ものづくり・商業・サービス新展開支援補助金」を活用し、平成28年4月から新しい機械を導入した。5年以内には今の倍に生産量を増やしたいという。

順調に売上を伸ばしている同社だが、大きな課題もある。それは事業承継問題だ。
「娘2人は嫁いでいるので跡取りがいません。しかし、このラムネは後世に残したい。製造方法から機械、権利までの全てを後継者に譲りたいと考えています。その準備として、私財と事業を明確にわけるために、平成27年に株式会社にしました。もちろんあと10年、15年は現役を続けるつもりです。」
平口氏は、レインボーラムネがこれだけ話題を呼んでいる中でも新商品開発を続け、次の仕掛けのタイミングを計っている。

——————————————————————————–
【高橋石材工業 株式会社(北海道二海郡八雲町)】

(石材加工販売業、葬祭業)

〈従業員4名、資本金1,000万円〉
取締役会長(あおいセレモニー代表)高橋勝子氏

「石材加工会社が第二創業として葬儀業に着手」「ゆくゆくは葬儀からお墓まで担うサービス体制を構築」

◆事業の背景
二人だけの石材加工業からスタート。墓石の需要が高まり事業規模も拡大。

観光地としても人気の高い小樽運河の倉庫群をはじめ、明治時代から昭和初期にかけて、札幌市や小樽市周辺の建物には札幌軟石という種類の石材がよく使われていた。平成28年3月に開通した北海道新幹線の新函館北斗駅近隣に位置する北海道二海郡八雲町で、石材の加工販売を昭和41年から営む高橋石材工業も、もとは札幌軟石の石職人だった。
取締役会長である高橋勝子氏は、石職人のご主人と結婚後、親戚の誘いもあって八雲町に移り住み、小さなアパートと石の加工をする場所として畑を借り、二人で墓石の製作と施工を始めた。

「主人が石を削り、私が磨き、リヤカーに墓石を乗せて運んだのを今でも覚えています。昭和30年代に日本が高度成長時代を迎えると、人々に先祖を思いやる精神的なゆとりが生まれました。それまでは川から拾ってきた石などを墓石の代わりにしていた人が多かったのですが、次第にきちんとした墓石を求める人が増えたのです。次々と注文が入り、忙しい毎日でした。」

しかしコンクリートブロックの普及とともに札幌軟石の需要は減り、昭和40年代中盤になると、墓石の石材も花崗岩、いわゆる御影石が主流となってきた。軟石の場合は手で削り、磨くことができるが、御影石は硬性が高く手作業での加工は難しい。墓石の注文は増え続けていたので、二人は新たな決断をする。茨城県にある石材店で御影石の加工技術を学び、金融機関の融資を受けて石材加工の機械を購入、従業員も入れて事業規模を拡大させた。
墓石などの製作を行う石材加工工場

◆事業の転機
昭和50年代後半のピークを境に売上激減。新分野での第二創業を計画。

事業と併行して、高橋氏は八雲商工会女性部長を19年間、同時に北海道商工会連合会の副会長を併任するなどさまざまな役職も務め、地域の発展に力を注いできた。子どもたちが通う幼稚園の父母会の仕事、霊園での草むしりのボランティアなど、「手助けがしたい。」という思いに駆られて昔から率先して動いたという。小さなことでも真摯に取り組む姿を通して、人望を集め、それが事業にも影響していたのだろう。その後も売上も順調に延び続け、昭和50年代後半にはピークを迎えた。ところが、そんな絶頂期にある事故が起き、数千万円の負債を抱えることとなる。

「従業員はいましたが、それまでは個人事業主でした。事業存続の危機に直面し、経営というものを改めて見つめ直しました。そして従業員に対する責任の重さも感じて、昭和58年に法人化したのです。主人は昔気質の職人でしたので、私が代表取締役を務めることにしました。」

新たなスタートを切るが、平成10~15年頃から事業に暗雲が立ち込めてきた。地元周辺で墓石が7割がた普及してしまったこと、お寺離れやお墓に対する世間の人たちの意識の変化、宗教の多様化などさまざまな要因により墓石の需要が減ってきたのである。年々売上は下降線を辿り、4~5年ぐらい前には、ついにピーク時の半分程度にまで落ち込んだ。マイナス部分を補うために、墓石のメンテナンスサービスに積極的に取り組むと同時に、広告を掲載するなど営業も行うようにしたが、それだけでは間に合わなかった。「何か新しいことを始めなければ。」と新事業を考え始めた頃、ある相談が高橋氏のもとに寄せられた。それが第二創業のきっかけとなったのである。

◆事業の飛躍
ある相談がきっかけで葬儀社を創業。新分野進出で活路を見出す。

「新事業として高齢者向けの施設運営を計画しましたが、資金面での折り合いがつかず、断念した時でした。知り合いの葬儀社から、高齢になったので事業を継いでくれないかという相談を受けたのです。葬儀なら今までの仕事と関連性もありますし、困っている人を放っておけない性分なので、一肌脱ぐことにしました。」

葬儀道具一式、霊柩車や参列者を運ぶマイクロバスなどを買い取り、従業員もそのまま雇用。空き家になっていた建物を遺体安置所とセレモニー会場、そして親族が宿泊できる施設にリノベーションした。創業のためにかかった費用は約1,500万円。小規模企業共済の給付金をあて、平成26年5月、「あおいセレモニー」の名称で葬儀業に進出することとなった。

当時、八雲町には大きな規模の葬儀を中心に取り扱っている葬儀社があった。

「独居老人や生活保護を受けていた人など、高額な葬儀代を工面できない人もいます。また、小さなお葬式に何十万円もかけられないと人もいました。」

高橋氏は競合しないように、20~30人程度が集まる規模の小さな葬儀を中心に手掛けることにした。

「自分の家族を送るような気持ちで亡くなられた方を送りたいと思っています。親族の方たちからも、『温かいお葬式でした。私が亡くなった時もお願いします』とありがたいお言葉をいただきます。」

真心のこもったお葬式の様子が人づてに伝わり、依頼者も増えてきた。患者が亡くなった時に病院から大手葬儀社に連絡がいったものの、親族があおいセレモニーでの葬儀を強く希望したこともあったという。創業から約2年、その間に高橋氏は30人弱の故人をおくった。
葬儀を行うセレモニー会場宗教に合わせて祭壇を組む

◆今後の事業と課題
葬儀からお墓まで全てを担う。本業と連携したサービス体制の構築を目指す。

葬儀業は石材加工よりも売上単価が低く、まだ本業の売上減少分の穴埋めにはなっていないものの、あおいセレモニーの売上は順調だ。

「宗教によってしきたりが違うので毎回本当に神経を使いますし、いたらない部分もあります。でも、全てが勉強、そして何があっても5年は辛抱しなければと決めています。」

一方、高橋石材工業は、あおいセレモニーを創業する際、代表権を息子の大仁氏に譲った。新社長である大仁氏は、墓石だけでなく、マウスパットやオブジェなど、石材を使った新商品開発に取り組んでいる。

順調な滑り出しを見せている新分野への進出。当初、石材業と葬儀業は連動せずに分離したまま経営を行っていたが、現在、あおいセレモニーは高橋石材工業の一部署となっている。
「ゆくゆくは、葬儀からお墓の管理までワンストップのサービス体制を構築したい。」
平成28年の誕生日で72歳を迎える高橋氏はバイタリティにあふれ、第二創業を成し遂げた今、更なる飛躍を目指している。

——————————————————————————–
【株式会社 谷口工務店(福井県三方郡美浜町)】

(建設業、総合工事業)

〈従業員15名、資本金2,000万円〉
取締役会長谷口烝司氏、代表取締役谷口直利氏、従業員の高城和行氏、谷口篤美氏

「廃瓦を再加工したカワラブロックスを開発」「環境に優しく味わい豊かな風合いで、新規顧客を開拓」

◆事業の背景
過疎化による空き家の増加で、毎年500万枚以上の瓦が廃材に。

景気の影響をもろに受けやすい建設業界。そのような中、廃材を利用した環境ビジネスで新機軸を打ち出す企業がある。

福井県三方郡、若狭湾に面した美浜町にある谷口工務店は、大正8年の創業以来、地元密着型の事業を展開。住宅や各種施設の設計、施工を手掛けてきた。そうした業務のなかで大量に発生する廃瓦を資源として再生させたものが「カワラブロックス」だ。

きっかけは、業務の一環として行っていた屋根改修工事や解体工事。近年の少子高齢化や過疎化による空き家の増加で、建て替えや取り壊しが増えており、この時大量の廃瓦が発生することに着目した。

福井県内の越前瓦は年間推定600~700万枚生産されるのに対して、廃瓦は年間500万枚にも上る。県内に流通する愛知県の三州瓦や現在は製造されていない若狭瓦なども含めると、その廃棄量は更に多いと考えられる。

こうした廃瓦は、土地の埋め立て処理や水田の暗渠排水の疎水材として使われる程度で、再利用が限られている。そこで県では瓦製造業者や産廃処理業者に働きかけて「資源循環ビジネス廃瓦研究会」を設立、地下排水溝への利用検討を始めたが、いまだに事業化へ踏みだせないのが現状だ。増え続ける廃瓦の再利用は産業界のみならず自治体にとっても急務となっていた。

◆事業の転機
廃瓦を自社処理するために、産廃業者の資格を取得。

こうした廃瓦は通常、建設業者が民家の解体業務を行う際に、専門の産業廃棄物処理業者に引き取ってもらうのが一般的だ。しかし、谷口工務店の場合は周辺地域に産業廃棄物処理業者が見当たらなかったため、平成25年に瓦粉砕機を購入し、産廃処理事業の資格を取得。自社で廃瓦を処理できる体制を整え、更に他社から持ち込まれる廃瓦の受け入れを始めたことで、産廃処理としての利益が生まれ始めた。ただ、その一方で膨大な量の廃瓦をなんとか再利用できないかという、使命感にも近い思いが谷口烝司(たにぐち じょうし)会長のなかにあった。

「処理だけでも大変な業務なのに、ましてやリサイクルするのはそう容易なことではありません。ただ、どうにかして社会貢献したいという思いがありました。」

二代目として長年会社を引っ張ってきた谷口氏は、これからは環境を意識したビジネスを展開しなければならないと常々考えてきた。

そもそも瓦自体は良質な粘土でできており、再加工次第ではリサイクルの余地は十分にある。そこで、まずは敷砂利としての活用を目論んだが予想以上に需要が伸びずに苦戦を強いられることになった。その間、受け入れる廃瓦は日に日に増していくばかりで、事業の見直しを迫られていた。

◆事業の飛躍
蓄積したノウハウを活かしブロックを製造。洗い出し加工で味のある風合いを実現。

「使える」商品を目指して試行錯誤を重ねて生み出したのがブロックだった。従来のブロックとは違い、「環境に優しい」という付加価値を備えたカワラブロックスである。実は、谷口工務店は昭和36年から昭和60年にかけてコンクリートブロックの製造を行っていた実績があり、製造ノウハウがあった。

「新たに自治体から助成を受けられるということで、これに賭けてみるしかないと思いました。」と谷口会長。資金調達に活用したのは、ふくい産業支援センターの「ふるさと企業育成ファンド新分野展開スタートアップ支援事業」だ。

製造に当たっては、まずプロトタイプを作り、サイズを決定。廃瓦を5ミリほどに粉砕し、縦15センチ、横30センチ、厚さ10センチに形成してみた。市販されているブロックの重さを半分の5キロに抑え、使いやすい小型軽量サイズにした。

こだわったのは、瓦本来の色彩を活かしたカラー展開と素材感だ。色は愛知県産の三州瓦を使った「赤」、越前瓦を使った赤茶色の「混合」、そして若狭瓦を使った「黒」、更に敦賀市内で採取される花こう岩を利用した「白」の計4色を設定。そして、ブロックの表面に洗い出し加工を施すことで、従来の無骨な風合いではなく、凹凸に富む味のある質感に仕上げた。元は屋根瓦なので吸水力と透水性にも優れ、退色しないことも大きな利点。長年蓄積されたまま、会社のなかで眠っていたブロック製造の技術を活かした。
ラインナップと商品特性を示したカワラブロックスのパンフレット
洗い出し加工によって表面にザラつきが生まれ味わい深い風合いに

◆今後の事業と課題
当面の課題は新たな販路の開拓。一般消費者に響く商品づくりやPRも計画。

平成26年夏から販売をスタートしたカワラブロックスの商品ラインナップは、平成27年4月現在、66種類。建築事務所や建材業者はもちろん、一般消費者にも手にとってもらえるようにと、同年秋からは県内外のホームセンターなどに営業をかけ始めた。その営業努力もあり、個人宅の玄関アプローチやガーデニング、商業施設の庭や共用スペースなど、徐々に施工数も増えてきた。

「最初は塀や壁に積むタイプと、床に敷くタイプを兼ね備えたブロックがいいのではと思って作ってみましたが、いざ市場に出してみると積むのはプロでないとなかなか難しい。反対に床に敷く専用のタイプは、思いのほか好評でした。どのサイズが最も消費者にアピールするのか、試行錯誤は今でも続いています。」

流通側にとってもまったくの未知数な商品だけに、取引先との希望卸価格にギャップがあり過ぎたり、遠方からの発注は運搬費との兼ね合いが難しかったりと、障壁もまだまだある。また、受け入れた瓦の量によって生産量が決まるため、大量の発注オーダーに即時対応できるかどうかは常に懸念事項となっている。

「東日本大震災から5年を経て、ブロック自体の消費量は減ってきていますが、品質自体には自信を持っています。今後はカワラブロックスのWebサイトを開設して、幅広くPRしていきたいと考えています。」

目下、会社の総売上に占めるカワラブロックス事業の割合は約5%だが、今後もこの環境ビジネスを継続していくつもりだ。

——————————————————————————–
【有限会社デュオ・デザイン(愛知県知多市)】

(建設、サービス業)

〈従業員7名、資本金500万円〉
代表取締役榊原裕高氏

「店舗設計・施工、地域活性化、食品保存、三つの異なるビジネスで社会を豊かに」

◆事業の背景
初めて決めた仕事をやり抜くも、光が見えず、苦しかった20代。

大学で建築を学び教授に推薦された大手ゼネコンに就職した榊原裕高氏が、はたと人生に疑問を持ったのは、就職してから1年足らずのこと。東京で忙しく働く意味が分からなくなり、会社を辞め地元愛知県に帰郷した。

当然親は怒る。帰郷4日目にして父に命じられるまま、今度はタイル工場で働くことに。働きながらこれからどうすべきか考えていた頃に出会ったのが、店舗の設計施工の求人広告だった。

「深夜早朝はあたりまえの仕事で非常にきつく、周囲は大卒では1週間もたないだろうと思っていたようです。思えば、私にとってはこれが初めて自分で決めた仕事であり、初めて関わった店舗が実際に開店した時、ものすごく感動しました。仕事で感動したことは初めてで、なんとしても続けて、この仕事で成功しようと決めました。」

時代はバブル全盛期。いくつも案件を掛け持ちし、多くの経験を積むことができた。しかし、新たな思いが頭をもたげる。

「その会社は孫請けや曾孫請けばかりの仕事で、他人が設計したものしか作れない。1軒でいいから自分のデザインで店舗を作ってみたいと社長に話しましたが、それは無理だといわれ、会社を辞めました。」

その後大手店装会社の名古屋支店で力をふるったが、圧倒的な成績を上げても収入が上がらない。子どもが生まれたこともあり、このままでは満足のいく子育てができないと、勤めながら店舗デザインなどのアルバイトを始めた。アルバイト収入が本業を上回るほどになったこともあり、副業を本業とすべく起業を決めた。30代になる頃だった。
知多半島の海に面した自然豊かな場所にある社屋

◆事業の転機
幸せを手に入れた30代。その理由を知るため、さらに学びの道へ。

榊原氏が店舗を設計する際に心がけているのは、オーナーが求めるものをしっかりと受け止めることだ。顧客とデュエットをするようにデザインするという意味が込められたデュオ・デザインという社名が、まさにこの考えを表している。

「店を作りたい人は、作りたいイメージを持っています。しかし、なかなかうまく表現できない。そこを丁寧にすくい上げて形にすることを心がけています。」

また、デュオ・デザインが一般的な建築設計・施工会社と大きく異なるのは、店舗のハードを作るだけでなく、ITを活用した集客というソフト面もサポートするところだ。お店が愛され続いていくためには、そこで提供されるものやサービスが優れている必要がある。しかし、いかに優れていてもそれが人々に認知されなければ集客にはつながらない。店舗オーナーが必ずしも長けているとは限らない集客を支援することで、ハードができた後も長く顧客をサポートする。

このように、真摯な姿勢とユニークなビジネスモデルで、業績は順調に伸びていった。そんなある時、あこがれの車のオーナーとなりハンドルを握りながら、つくづく幸せを感じたという。

「20代はあんなに苦しく惨めだったのに、どうしてこんなに幸せになれたのだろうと、それが知りたくなりました。そこで、成功哲学やコーチングなどを学び、ビジネス書を読んだり、人に勧められた講演会や集まりに積極的に参加したりするなど、一生懸命に勉強を始めました。」
デュオ・デザインが設計・施工した「まるや本店JR名古屋駅店」

◆事業の飛躍
地域活性化にも貢献する、新たな会社を設立。

多くの講演会に参加するなかで特に印象に残ったのが、セブン&アイ・ホールディングス 鈴木敏文会長の講演会だ。もし商店街の一店舗のオーナーだったらどういう店にするかという質問に対して鈴木氏は、「その地域にしかなく、そのなかでも一番のものを集めて売る。これならセブンイレブンもイトーヨーカ堂も敵わない。」と答えたという。

「ここにしかないもの」の強みを改めて知った榊原氏は、地域の活動にも着手。この地域に特化したポータルサイト構築を核に活動を開始した。10年以上かかり設立した会社が「株式会社 知多半島ナビ」である。その一つの事業に、店頭へのバイクスタンドの普及活動がある。知多半島はサイクリング好適地で、サイクリストが多く集まる。しかし、本格的なサイクリストのシューズにはペダルを固定するための金具がついており、歩くとうるさい。その遠慮もあって地元の店には入らず、食事をコンビニなどで済ませる人が多かった。その結果、来訪者は来るものの地元の店の収入につながっていなかった。そこで、歓迎のサインを込めてバイクスタンドを置くことを思い付く。この活動は現在70店以上に広がり、来訪者にも店主にも喜ばれている。知多半島ナビは株式会社となっており、榊原氏が代表を務めるが、参加各社が平等な組織としている。

「一人が儲かる仕組みでは、ローカル地域ではうまくいきません。みんなが協力して動きやすいよう、全員が平等な立場の組織にしました。この考え方は、商工会議所青年部での経験が役に立ちました。現在は知多半島全域の約80社が参加しています。」

◆今後の事業と課題
食品ロスの削減を目指し、さらに新ビジネスに挑戦。

既に二つの会社を運営する榊原氏だが、平成25年さらにもう一つ会社を立ち上げた。株式会社氷感サプライである。氷感とは、0℃付近で凍らせず保存することによって、食品の長期保存と熟成を可能にする技術だ。これが普及すれば、社会的な問題である食品ロスの大幅な削減が可能になるかもしれない。

このビジネスを思いついたのは、地域で活動するなかで、一次産業経営者の共通の悩みが保存であることに気が付いたからだ。別の会合で知った氷感に興味を持ち、メーカーに問い合わせた。半年間徹底的に調べ、やるべき事業だと判断。現在関東以西の総代理店となって、普及のために全国を飛び回る。

人とのつながりを大切にし、やるべきと感じたらとにかくやってみる。榊原氏が大切にしているのは、優しく、“すなお”であること。

「すなおとは、すねない、なめない、おそれない、の三つです。ビジネスで成功するには、この三つは欠かせません。私自身、こうありたいと思いますし、こういう人に会ったら、とにかく話を聞いてもらうようにしています。」

三つのビジネスで縦横に活躍する榊原氏は、これからも、顧客のため、地域のため、社会のため、走り続けるに違いない。

——————————————————————————–
【有限会社 中の原銀嶺(鳥取県西伯郡大山町)】

(旅館業、飲食業)

〈従業員10名、資本金300万円〉
米子市の郊外に店舗を構える「手打ち蕎麦やぎんれい」

「スキー宿の売上減少の打開策として、地元にこだわった蕎麦店をオープン」

◆事業の背景
バブル期のスキーブーム以降、大山へのスキー客もじわじわと減少。

中国地方随一のスキー場を擁する鳥取県・大山。国内にあるスキー場の例に漏れず、1980年代のバブル期に到来したスキーブームの折には、若者を中心に多くのスキー客が訪れた。その大山スキー場の目と鼻の先で1960年代から旅館業を営んできたのが、中の原銀嶺だ。

「スキー客を対象に、旅館や食堂、そしてスキー用品のレンタル業を先代から続けてきました。当時はスキー客の数も右肩上がりで、売上も順調に推移。それにともない客室数を増やすなど、事業規模も広げていった。」と語るのは、二代目である代表取締役の絹見安史氏。ところがバブル崩壊をきっかけに、スキー人口自体も1993年をピークに下降線をたどっていく。ピーク時には年間40万人だった大山スキー場の利用客数もここ数年は20万人と半減している。

絹見氏が先代から中の原銀嶺を引き継いだのは、スキー客の減少が顕著となっていた2000年代。「当時は趣味の多様化などもあり、既に若者のスキー離れが深刻化していました。そこで、食堂の業態を変え他店と差別化する、グリーンシーズンの集客を図るなど、さまざまに試行錯誤を続けましたが、いかんせん、スキー場に人が来ません。」売上もとうとう全盛期の3分の1にまで減少した。

◆事業の転機
試行錯誤の中で開業した蕎麦専門店、念願の米子の街にオープン。

そのような時にふと頭をよぎったのが、食堂を利用したある常連客の声だった。「蕎麦は美味しいが。この蕎麦が米子で気軽に食べられんかのう」。実は絹見氏はさまざまな試行錯誤の中で、これまでの食堂を蕎麦専門店に変更するという大胆な試みを行っていた。凝り性な絹見氏自らが、蕎麦粉は自家製粉、そして手打ちという本格的な蕎麦を提供していた。残念ながら、スキー場での集客には結びつかなかったが、「人が多くいる街中で勝負したい。」という思いは強くなっていった。そこで一念発起、平成23年9月に米子市内に念願の蕎麦店をオープンする。

開店に当たって利用したのが、地元商工会の開業支援制度だった。店のコンセプトはもちろん、店舗レイアウトやメニュー構成などを専門家にも相談しつつ入念に決めていった。

「まさに満を持してのオープンでした。地元のテレビ局に取り上げられたこともあり、オープン後の3ヵ月は売上も順調に伸びていきました。」

ところが順風満帆かと思いきや、翌年に入るとなぜか客足がパタリと遠のき、売上も当初目標としていた月商200万円を大きく下回り、単月赤字へと転落してしまう。その後、蕎麦定食を追加するなどメニューのテコ入れを図るも効果なし。そのような状況が数ヵ月続いた。

「このままでは、本業とでもいうべき旅館業にも悪影響を及ぼしてしまう。」絹見氏は意を決し、平成24年の夏に改めて鳥取県西部商工会産業支援センターの森山晴夫経営指導員(当時)に相談する。

まず行ったのが、徹底的な現状分析だった。並行して顧客アンケートも行った。その結果、「価格設定」「夜間売上の不振」「店舗視認性」「メニュー表示」「サービス」など、これまで分からなかった問題が次々と浮き彫りになってきた。中でも大きなウェイトを占めていたのが「価格設定」の部分だったという。

「いわゆる“観光地価格”で提供していました。」大山という観光地で長年事業を行ってきた絹見氏は、オープン当時の価格設定が割高な観光地価格だったことに気付かなかった。これでは、客がいくら蕎麦を美味しいと感じても、日常的に訪れるのは難しい。そこで絹見氏は価格設定を根本から見直していった。

「蕎麦の商品力(味)に関しては折り紙付きです。であれば、これらの問題を一つ一つ潰していけば、自ずと道は開けるのではと考えました。」と、森山氏は当時を振り返る。
代表取締役絹見安史氏
米子市の郊外に店舗を構える「手打ち蕎麦やぎんれい」

◆事業の飛躍
商工会と二人三脚で取り組んで、長く苦しい低迷からの脱出。

メニュー価格の引き下げに始まり、メニュー数の絞り込みやメニュー表の改善、さらに夜の集客数アップのための夜割チケットなど、絹見氏は森山氏と二人三脚で、売上向上のためのさまざまな対策を次々と打ち出したが、一度離れた客が戻ってくるのには時間がかかる。事実、こうした取り組みを始めて以降も売上は一向に上向かず、赤字は膨らむ一方だった。さらに取引金融機関の担当者からは事業撤退の勧告までされる始末。

「店長からは『自分の人件費が重荷になっているから辞めます』、妻からも『お金が続かないのでもう撤退しよう』と言われ、まさに万事休すといった感じでした。」そんな絹見氏を「社長、もう少しだけ頑張ってみましょう。」と励まし支えてくれたのが森山氏だった。

我慢の甲斐あってか、翌平成25年3月には、昼の来店者数が100人を越すようになり、ようやく復調の兆しが見え始めてきた。続く4月にはついに念願の単月黒字に転換する。その後も次第に売上が伸び、8月にはオープン以来となる月商200万円を突破。平成25年通年では前年比30%アップを達成した。これまで諦めることなく地道に取り組んできた数々の対策がまさに実を結んだのである。

◆今後の事業と課題
「大山」という地域ブランドを更に輝かせるために。

蕎麦店の売上はその後も現在に至るまで好調を維持しているという。蕎麦店出店後は会社全体の営業利益も大きくプラスに転じている。

「大山のスキー旅館はどうしてもスノーシーズンが勝負になるし、天候に大きく左右されます。それに対して蕎麦店では通年の売上が安定して見込める。これは大きい効果です。」

商工会の森山氏とタッグを組み、オープン以来の苦境を乗り越えた手応えをこう語る一方で、絹見氏は本業であるスキー旅館に関しての危機感を募らせる。

「スキー客がいない以上に、大山には若い働き手がいないのが問題。それこそ留学制度などを活用している海外の若者がもっと働きやすい環境を作るなど、行政にはそうした面で期待しています。また、“大山”自体のブランディングも課題。大山を再び多くのスキー客で賑わう場所にしたいと思います。」