新陳代謝の促進の事例

出典:「2016年版小規模企業白書」(中小企業庁)を加工して作成

【リリーアンドデイジー株式会社(大阪府吹田市)】

(ベビー服・子供靴のインターネット販売)

〈従業員2名、資本金100万円〉
代表取締役麻生満美子氏

「創業時から真心をこめた“接客”にこだわり続け、愛してやまない米国メーカーの子供靴をブランディング」

◆事業の背景
娘の1歳の誕生日に起業を決意。海外の子供服をインターネット上で販売。

インターネットを利用した通販、いわゆるBtoC-EC(消費者向け電子取引)は、インターネットやスマートフォンで手軽に商品が購入できるので利用者が増え続けており、子育てと仕事の両立を求める“ママ起業家”にとっても、ネットショップでの起業は注目の的。海外ブランドのベビー靴やシューズ、子供服をネットショップで販売するリリーアンドデイジー株式会社の代表取締役である麻生満美子氏も一児の母。起業を決意したのは平成19年12月、娘が1歳の誕生日を迎えた日だった。

「大手通信会社の正社員として12年間勤務していました。結婚を機に退職したら、すぐに子どもにも恵まれて2年間は家事と育児に専念していたのですが、主人はフリーランスで、その頃から収入に波が出てきたのです。世帯収入を安定させるためには、一人の収入より二人で、と考えて私も働こうと思いました。」

ハローワークで再就職先を探すものの、キャリアを活かした仕事はなく、仮にフルタイムで働いた場合、育児をどうするかという問題も出てきた。

「起業なんて発想はなかったのですが、母が花嫁衣裳のリース業を自宅で営んでいて、その姿を急に思い出したのです。『そうだ、自分で仕事をすればいい』と思い、『何が好きか。何をしたいのか』を突き詰めていきました。当時、育児で外出もままならず、子どもの服をネットで買っていました。でも、明るい色を使ったデザインは海外ブランドに多く、気に入った商品を見付けるのに苦労していたのです。私と同じような思いの人は意外と多く、それなら良心的な価格で購入できる海外ブランド品をセレクトし、私がネットで販売しようと思ったのです。」

失敗をしても大きな痛手にならないという理由から、立ち上げの費用は貯金を切り崩して50万円までと決め、平成20年6月、インターネット上にリリーアンドデイジー・サイトを立ち上げた。

◆事業の転機
転売では利益が出ない。米国ブランドと代理店契約を結ぶ。

準備段階から問題が発生した。日本への直送不可や、日本のクレジットカードが利用できないブランドがあり、納得のいく品揃えが困難だったのだ。

「問題に突き当たったら解決策を探す性格です。英語が喋れない私にできる方法を調べました。すると、現地で買物を代行してくれる代行業者を見付けました。」

海外の子供服はヨーロッパ製も人気が高いが、麻生氏はあえて米国ブランドにこだわった。元々米国のブランドが好きということもあったが、手頃な価格帯での販売が可能なこと、一国に絞ることで経費を抑えられるメリットもあったからだ。

リサーチ結果から売れ筋商品を見極め、最終的には自身のセンスを優先。海外からセール品を購入し、利益を上乗せして販売した。初めての購入客は開店3か月後。その後、ベビースイミングの流行に合わせて水着を扱い始めたら徐々に反響が出始めた。

しかし月商はわずか20~30万円。転売では儲けは少なく、仲介手数料も発生するため利益がほとんどない。それ以前に、「転売は商売としてフェアじゃない。」という気持ちが心の中にあったという。解決策を模索していたところ、ある商品と出合い、それが成功への鍵となった。

「『この前買った服に合う靴はありませんか』という問合せを受けて調べたところ、足の発育を考慮した米国メーカーの子供靴を見付けました。出合った瞬間、『これだ』と思いました。」

麻生氏が注目した靴は、素材や通気性、細部の加工など赤ちゃんにやさしい要素がそろった、米国の小児科医が推奨する靴だ。日本国内ではあまり流通していない革製の子供靴ということにも着目した。カラフルなデザインも特徴で、ファーストシューズとしても人気が高い。

ところが代行業者に依頼して靴を仕入れたところ、莫大な関税が発生した。

「革製品の関税率が高いことを知らなくて、商品購入代金は30万円ぐらいなのに、税金が50万円ほどかかりました。すぐに地域の経済産業局に相談をしたところ、皮革製品の関税割当申請のことを知り、翌年からこの制度を利用することに。その後、この革靴のメーカーを含め、米国のブランド5社と直接代理店契約を結んでいきました。」
小児科医が推奨する米国メーカーの子供靴

◆事業の飛躍
大手ショッピングサイトへ出店。真心を込めた対応で売上を伸ばす。

代理店契約は代行業者に仲介を依頼した。月商は上がったが、満足のいく数字ではなかった。

「独自ドメインで2年ほど続け、広告も出していましたが、アクセス数の限界を感じていました。それで大手ショッピングサイトに出店することにしたのです。」

出店条件をクリアするために、平成22年、麻生氏は個人事業者として登録。出店後の反響は大きかったが、売上アップの要因はそれだけではない。購入された商品に込められる麻生氏の“真心”もひと役買っている。

「創業時から意識していたのは接客です。ネットショップだからこそ、お客さまを出迎えるトップページの言葉一つ一つに気を配っています。メールやお電話でのやり取りも重要ですし、無料ラッピングを施したり、感謝の気持ちを込めた手書きのメッセージを同封したりしています。ベビーシューズは贈物として買われる方も多いので、プレゼントしたくなるようにしてあげたいのです。」ネットショップでは店の評価が書き込まれるが、リリーアンドデイジーの評価は非常に高い。
オフィス内。子ども連れで仕事をする人もいる

◆今後の事業と課題

ゆくゆくは日本の総代理店となり、全国にブランド名を知らしめるのが目標。

現在は7対3の割合で洋服よりも靴が取扱商品のウェイトを占めている。

「この革靴は、私が開拓したブランドです。商品価値を伝えるのも店の役目だと思っていますし、この先、もっと日本全国に広めていきたい。そのためにはどうブランディングしていけばいいのかが課題です。まずは、会社の体制を整えるために、平成25年5月に法人化しました。日本の総代理店にしてくれるように、現在、交渉を進めています。」

将来的にはデパートやネットショップに商品を卸すほか、実際にお客さまが商品に触れることができる実店舗も展開したいと話す麻生氏。リリーアンドデイジーが、セレクトショップから専門店となる日も遠くはない。

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【花みづき(広島県竹原市)】

(プリザーブドフラワーの販売、教室、飲食業)

〈従業員2名、資本金300万円〉
店長北丸令子氏

「竹原市内三蔵の酒粕を使った「氷甘酒」を開発」「集客力を高めプリザーブドフラワーの売上増も目指す」

◆事業の背景
自宅1階の空き店舗を利用し、カフェ&プリザーブドフラワーの店を開店。

風情のある街並みから「安芸の小京都」と呼ばれ、平成12年に国土交通省の「都市景観100選」にも選定された広島県竹原市。NHK連続テレビ小説「マッサン」や、人気アニメ「たまゆら」の舞台としても注目を浴び、幅広い年齢層の観光客が日々訪れる。そのような観光客がコーヒーを飲みながら一息つける店が、メインストリートにある「花みづき」。店内には色とりどりの花が多数飾られているが、それもそのはず、プリザーブドフラワーの販売店でもある。

プリザーブドフラワーとは、特殊な加工法により生花の美しさを長期間保たせた花のこと。アニメの影響で10~20代の観光客が増え始めた平成24年10月、“カフェとプリザーブドフラワーの店”として、店長の北丸令子氏が自宅の1階を使ってオープンした。

「きっかけは、開店した年の8月に、『プリザーブドフラワーの販売先に困っている。竹原で販売してくれる店はないか』と、元同級生から相談されたことです。初めはプリザーブドフラワーが何かもよく分かりませんでしたが、見せてもらったところ、すごく綺麗で、それも枯れない。元はカフェだった自宅の1階は空いていましたし、商工会議所の担当者も、『こんな一等地を空き店舗にしておくのはもったいない』と。私は、プリザーブドフラワーの展示販売だけでは集客力に欠けると思い、『カフェを併設してはどうか』と提案しました。」
風情のある外観。入口には人気メニューの写真が貼りだされている

◆事業の転機
観光客に合わせたメニュー開発。スノーアイスが大人気に。

プリザーブドフラワーは全て買取なうえ、「100点以上の花に囲まれたカフェ」をうたい文句にしたため、購入代金は200万円近くかかった。しかし元がカフェだったので、プリザーブドフラワーを展示する棚と照明を追加した程度で内装工事は済んだ。また、母親がコレクションしていたカップをそのまま利用できたなど、多額の資金をかけなくて済んだことは、開業を決意できた理由の一つでもあった。

「母の手伝いをしていたので、カフェの仕事は経験がありました。また、ホテルの支配人を数年、任されたことがあって、接客や経営についても問題はなし。新しいことに興味を持つタイプなので、飲料メーカーの研修で美味しいコーヒーの入れ方を勉強してからは、開店が待ち遠しかったくらいです。」

開店時のメニューはコーヒーと紅茶、オレンジジュースだけ。不慣れな部分をフォローしてもらうため、商工会議所の担当者にアドバイスを仰いだ。

「メニューが少な過ぎると指摘を受けました。アニメの影響で増えた若いお客さま向けに何か提供できないかと考え、スノーアイスをメニューに加えたところすごい反響で、現在も人気メニューの一つになっています。近所のケーキ店に焼き菓子を作ってもらいドリンクとセットにしたり、ナポリタンと明太子うどんだけですが、食事もできるようにしたりしました。一気に増やしても対応できないので、少しずつメニューを増やしていきました。」

また、外から店内が見えない構造だったため、入口にメニューの写真を張り出したところ、それを見て入ってくれる人も増えたという。しかしカフェのお客さまは増えても、肝心のプリザーブドフラワーの売れ行きは好調とはいい難かった。
食器棚の中からお好みのカップを選んでコーヒーが飲める

◆事業の飛躍
竹原らしさを追求した商品開発。地元の酒粕を使った「氷甘酒」の完成。

「開店の時に配ったチラシを持って、プリザーブドフラワーを買いに来る方もいましたが、持って帰るにはかさばりますし、観光ついでに買う価格でもありませんでした。そこで、持ち帰りやすく、手頃な価格帯の商品を増やし、店内のタブレットPCに過去の作品を映し出してカタログの代わりにしました。」

プリザーブドフラワーの売上を上げるために地道な努力はしたものの、なかなか結果がついてこなかった。理想は、カフェとプリザーブドフラワーとで相乗効果を生むこと。そこで、好調なカフェの経営に力を注ぎ、集客を高めることでプリザーブドフラワーの周知につなげようと考えた。そのためには、話題性のあるメニューが必要だった。

「竹原らしさをいつも意識していました。竹原は酒どころでもあります。スノーアイスの機械を見ていて、甘酒を凍らせ、かき氷にしたら面白いかもしれないと思いました。」

かき氷に適した濃度を調べるのに何度も作り直したり、分離するのを防ぐために生クリームを加えたりと、試行錯誤を繰り返した。商品を思いついてから1か月後の平成26年7月、ドラマで脚光をあびた竹鶴酒造をはじめ市内三蔵の純米酒粕を使った3種類の「氷甘酒」が誕生した。

食べたことのない舌触りと味、きき酒のように味比べができるなど、すぐに話題を呼んだ。夏の数か月間限定メニューな上、決まった個数しか作れないため、希少価値も加わった。「氷甘酒」を目的に遠方から竹原まで来る人もいたという。

「プリザーブドフラワーの売上に結びついているとはまだ言えませんが、話題となったことで竹原のPRには貢献できたと思います。それは本当に嬉しいです。」
竹原三蔵の純米酒粕(幻、龍勢、竹鶴)を使った、夏の期間限定メニュー「氷甘酒」

◆今後の事業と課題
ブームが去ったあとの対策が課題。商店街との連携も重要。

街並みそのものの魅力もあるが、ドラマやアニメの影響力はまだ残っていて、観光客が後を絶たない。「花みづき」もご多分に洩れず、週末は満席が続くなど“嬉しい悲鳴”をあげることも多い。しかし、ブームが去ったあとの具体的な対策はまだできていない。

「竹原に来られたきっかけがドラマやアニメだったとしても、『また来たい』と思っていただけるような接客を意識しています。どんなに忙しくても笑顔は絶やしません。」

北丸氏は人当たりがよく、進路や恋愛の悩みを相談してくる若者も少なくない。東京の写真専門学校に進学したある高校生が、夏休みを利用して、わざわざ北丸氏の写真を撮りに来たこともあったという。

「8割が観光のお客さまなので、リピーターを獲得するための努力は続けたいと思います。そのためにも、駅前の商店街と連携や情報交換をするなど、横のつながりが重要だと思っています。」

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【自然と未来 株式会社(熊本県熊本市)】

(有機化学工業製品・バイオディーゼル燃料の製造・販売)

〈従業員4名、資本金1,100万円〉
代表取締役社長星子文氏

「食廃油をバイオディーゼル燃料に精製」「熊本から世界へ向けて自然エネルギーの普及を目指す」

◆事業の背景
自然エネルギーとの運命的な出合い。誰もやらないなら私がやるしかない。

ちょっとした出来事がきっかけで、その後の人生が大きく変わることがある。熊本を拠点に、環境にやさしいバイオディーゼル燃料(以下、BDF)を広めようと、日々奮闘している星子文(ほしこあや)氏もそのような一人だ。

短大卒業後、アルバイトなどを経て就職した運送会社で働いていた時のことだった。「あるお客さまの車の排気ガスから、天ぷら油の匂いがしました。その匂いに驚き尋ねたら、食廃油から作ったBDFで走っていると。会社の経費削減に役立つかもと思い、燃料を少しいただいて、大学の研究者に調べてもらいました。」

そこで彼女は衝撃を受けた。軽油の代替燃料となるBDFは、CO2(二酸化炭素)を吸収して育った植物や大豆がベースの食廃油から作られるため、燃料にしても追加的なCO2は排出されない。黒煙も通常の排気ガスの3分の1以下になることが分かった。「地球にやさしく、そして家庭からも出る食廃油で作られるということは、誰でも環境保護に参加できるということです。BDFの存在を知り、こんな素晴らしいものはないと思いました。」

星子氏は病弱だったため、子どもの頃は蛍が飛ぶ豊かな自然に囲まれた祖父母の家で育った。自然の美しさを知っているからこそ、自然への想いは人一倍強かった。心を突き動かされた星子氏は、社長を口説き、1年かけて社内にBDFの製造部門を設立。ところが不況のあおりを受けて会社が倒産してしまった。

「BDF事業を続けたい思いから、1週間で7社ぐらいに誘いをかけました。どの企業もBDFを知っていましたが、『儲からない』という理由で全て断られました。それなら、『誰もやらないなら私がやるしかない』と思ったのです。」

倒産から1か月後の平成22年4月、BDF製造・販売会社「自然と未来 株式会社」を設立。資本金は貯金と車を売って作った50万円だった。
平成28年3月に移転した新工場

◆事業の転機
嫌がらせを受ける毎日。ある一言で“諦めの悪い経営者”に。

会社経営のノウハウはなかったが、決意は生半可なものではなかった。中古車販売会社の跡地を安価で借り、精製所を自分で作り始めると、彼女の思いを知った建築や電気関係で働く小中学生時代の同級生たちが、仕事の合間や休日に手伝いに来てくれた。9月まで続いた工事と併行して、食廃油の回収と営業も行った。1軒ずつお願いをして回ったが、回収業者と契約をしている飲食店も多く、食廃油の回収は苦労が絶えなかった。

「起業をしようと思った時、両親をはじめ周囲の人から猛反対されたのですが、その後、その理由を嫌というほど知ることになりました。6月ぐらいから嫌がらせが始まったのです。」

既存の産業廃棄物業者からすれば、突然、環境問題を掲げて食廃油の回収を始めた星子氏は、いうなれば「シマを荒らす厄介者」になる。反感を買い、苦労して集めた食廃油を盗まれたり、廃油回収業者の事務所で廃業を迫られたり、脅迫めいた電話も連日続いた。

「そのようなことが1年半近く続き、精神的にも限界を感じた時でした。ある方から『せっかくいいことをやっているのに、いちいちへこむのは不釣合いだよ。諦めの悪い人が最後は勝つ。だから諦めの悪い経営者になろう』と言われました。諦めが悪いという言葉は、普通マイナスイメージだと思います。でもこの言葉が私に勇気を与えてくれました。」

熊本から発する自然エネルギーの輪が、日本に広がり、世界に広がった時の地球の姿が浮かんだという。美しい地球を次の世代に引き継ぐ、それを仕事にできる素晴らしさを再認識し、「よし、諦めの悪い人になろう。」と決めた。

◆事業の飛躍
業界有力者との出会いで、夢の実現に一歩近づく。

嫌がらせの対応に労力を割くのを止めた星子氏は、企業や飲食店はもちろん、地域住民へも自社の取組を説き続けた。その結果、徐々に賛同者も増えていった。そのなかに、産業廃棄物業界に大きな影響力を持つ人物がいた。

「その方が私の事業を理解し、トラックの燃料にBDFを使っていただくなど応援してくれました。すると、嫌がらせがピタリと止みました。」

回収方法も徐々に確立されていった。スーパーなどの協力により拠点回収スポットを市内10か所に設置、飲食店を含む回収先は約700軒に増えた。取組に共感した学生が署名活動を行い、学食の食廃油を回収できるようにもなった。

啓発活動の努力が実り、熊本県知事や、地元企業の経営者も数多く賛同者となった。また平成25年、星子氏は「くまもと環境賞」、「地球温暖化防止活動環境大臣賞」を相次ぎ受賞。彼女の活動が評価されている証にもなった。

一方、BDFの品質向上にも心血を注いだ。

「ある日、当社の商品が原因で、お世話になった業界有力者の会社のトラックが故障しました。これで終わりだと思ったら、『応援すると決めたのだから見捨てるわけがない。謝る前に、故障原因を一緒に調べてくださいと言わなきゃダメだぞ』と言ってくれました。それで機械メーカー、大学の研究室と一緒に問題を解明し、高性能の蒸留装置を作り始めました。」

◆今後の事業と課題
東京オリンピック参加を目指す。そして世界へ自然エネルギーを。

研究を重ねた結果、平成26年に減圧蒸留装置が完成。最新のクリーンディーゼル車にも使える高性能BDFを生産できるようになった。また工場が手狭になったため、平成28年3月、熊本県から敷地を賃借し工場を新設。1日1,000~1,200リットルだった生産量を3,000リットルに増やした。星子氏を応援する有志が株主となり、資本金も増え、バックアップ体制も強化された。

「多くの人に助けられてきました。BDFで走る車を、熊本県内1企業1台にするのが夢。事業を熊本から九州そして日本全国に、さらに世界へと広げていきたいと思います。」そしてもう一つ、大きな夢に向け動き始めた。

「東京オリンピックの聖火にBDFを使ってもらいたいのです。実現すれば、国民の誰もが食廃油を通してオリンピックに参加できるのです。素敵でしょう。また、日本が本気で持続可能な社会を目指している事を、世界にアピールできる大チャンスになると思うのです。」

関係各所に協力を仰ぎ、着々と話を進めているという。星子氏の熱意が日本を、世界を変える日はそう遠くないかもしれない。

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【株式会社 門間箪笥店(宮城県仙台市)】

(箪笥の製造・販売業)

〈従業員16名、資本金1,000万円〉
専務取締役門間一泰氏

「伊達藩ゆかりの仙台箪笥の老舗が、海外展開やネット販売で事業を拡大」

◆事業の背景
伝統工芸の仙台箪笥の製造技能を、144年の長きにわたって受け継ぐ。

株式会社門間箪笥店は、明治5年(1872年)に伊達藩の御用職人だった門間民三郎氏によって創業された。以来、日本の伝統工芸品である仙台箪笥の製造に従事し、144年の長きにわたって技能を承継しながら事業を発展させてきた。

仙台箪笥の特徴は、指物・塗・金具の「三技一体」による堅牢な美しさにある。前面は欅、側面は杉、引出し内部には吸湿性の高い杉や桐を使用。湿気や乾燥による自然の“くるい”を防ぐため、木地には10年以上寝かせた素材を使用し、熟練の職人が手で感触を確かめながら丁寧に仕上げている。派手で豪華な仙台箪笥づくりは、“伊達男”の語源にもなった伊達政宗が仙台藩主であった時代に、始まったといわれている。

もともと仙台箪笥は、指物・塗・金具のそれぞれの職人が分業して完成させていた。そうした中、3代目の門間民造氏が、職人たちが自分の作った箪笥に誇りと責任を持てるように、指物や塗などの工程を一人の職人に任せ、自社工房で一棹まるごと制作できる体制を整備。これにより、“お直し”などのアフターサービスにも柔軟に対応できるようになった。

近年でも、平成23年に小箪笥「壱番」と中型箪笥「二尺猫足両開き」が、平成25年にはデザイナーとコラボレーションした「コンソール(ローテーブル)」が、それぞれグッドデザイン賞を受賞するなど、門間箪笥店が代々受け継いできたものづくりは高い評価を得ている。
仙台市若林区の本社(仙台箪笥伝承館)にはショールームと工房がある

◆事業の転機
経済産業省の補助金を活用し、海外の展示会に積極的に出展。

そうした中、7代目に当たる代表取締役専務の門間一泰氏は、箪笥の国内市場が縮小傾向にあることに憂いを感じ、海外市場に目を向けるようになった。海外の展示会に積極的に出展し、海外にも仙台箪笥のファンを増やそうと考えた。

だが、海外の展示会に出展するためには、渡航費や家具の搬送費など多額の費用がかかる。そのため、門間箪笥店では、中小企業庁の「ふるさと名物支援事業補助金制度」などを有効活用することで、費用を捻出した。

門間箪笥店の海外展開の大きな転機になったのは、4年ほど前に香港で開催された国際的なインテリアの展示会に出展したことだった。その時は、仙台箪笥の注文には至らなかったが、反響が大きかったので、海外でも仙台箪笥は十分に受け入れられると手応えを感じたという。

その後、アメリカの知人の紹介で、ロサンゼルスの日系のスーパーマーケットで展示会を開き、アメリカでも高い評価を得た。さらに、その翌年に日本デザイン振興会が運営している香港のグッドデザインストアで展示会を開催。それが香港の百貨店のバイヤーの目に留まり、それを機に門間箪笥店の仙台箪笥が香港で売れ始めるようになった。

以来、門間箪笥店の仙台箪笥の評判が口コミで広がり、香港、上海、タイなどのアジア圏を中心に、海外でも仙台箪笥の愛好家が徐々に増えていった。

「海外では、もともと日本のものづくりに対する信頼度が高く、特に当社の製品はデザインのバランスがいいと評価していただいています。現地の声を次の商品開発に活かし、マーケットインの商品を作っていることも、海外で受け入れられている理由の一つです。」
中型箪笥「二尺猫足両開き」グッドデザイン賞を受賞した

◆事業の飛躍
現代の生活様式にマッチした、デザイン性の高い家具も販売。

現在、門間箪笥店の売上は、9,600万円(平成27年5月期)。このうち、国内の売上が9割を占め、海外の売上はまだ1割に過ぎないが、今後は海外の売上が3~4割程度まで増加すると予想し、海外の売上だけで1億円を達成させることが目標だ。

同時に門間氏は、国内市場の売上アップにも力を注いでいる。平成26年に仙台市青葉区大町に直営店「monmaya EDITION」をオープン。仙台箪笥に加え、現代の生活様式にマッチしたデザイン性の高い無垢材の家具を多数展示し、新たな顧客層を増やすことに成功している。とりわけ、職人による手作りのメリットを活かし、サイズオーダーやフルオーダーなどさまざまな要望に幅広く応えることで、他社との差別化を図っていることが大きな特長だ。

一方、平成7年に本社に開設したショールーム兼工房「仙台箪笥伝承館」は、仙台市民の間で広く認知されており、平成14年に文化庁から「登録有形文化財」の指定を受けている。特に「仙台箪笥伝承館」の工房は、昔ながらの古民家をそのまま利用した趣のある施設で、小・中学生が伝統工芸を学ぶための社会科見学のコースにもなっている。

また、地元の子どもたちに伝統工芸に興味をもってもらうために、若林区の区民祭りなどで仙台箪笥を作る実演を行うなど、地域行事にも積極的に携わっている。

◆今後の事業と課題
地方の高齢者も気軽に利用できる、オンラインショップの構築を推進。

さらに門間氏は、平成26年に日本商工会議所青年部主催のビジネスプランコンテストに応募。そこで発表した「地方在住者向け上質な国産家具専門ECサイト」が見事準グランプリを受賞した。これは、地方に在住しているITリテラシーが低い高齢者などが、インターネット通販で上質な家具を手軽に購入できる環境を整備するというビジネスプランが高く評価されたものだ。

「近年、手頃な価格で家具を購入できる量販店が増え、各地域にあった“町の家具屋”が次々に姿を消しています。その結果、地方在住者は、上質で長持ちする家具を購入したくてもできないのが実情です。そこで、実店舗に近いかたちで“売り手の顔が見える”インターネット通販サイトを構築し、地方の顧客を増やしたいと考えたのです。」

たとえば、現在のインターネット通販は、クレジットカードによる決済が基本だが、門間箪笥店のインターネット通販では、電話による注文や銀行振り込みなどに柔軟に対応し、高齢者でも気軽に利用できるように配慮している。

既に門間氏は、外部のデザイナーに依頼してインターネット・サイトのデザインづくりに着手しており、平成28年6月頃にオープンする予定だそうだ。当初は日本語のみの対応になるが、将来的には英語版や中国版も用意し、海外からの注文にも対応できる体制を整えていく計画だ。

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【マルナオ株式会社(新潟県三条市)】

(箸・カトラリー・大工道具の製造・販売)

〈従業員17名、資本金1,000万円〉
代表取締役福田隆宏氏

「口当たりが良く、つかみやすい、こだわりの箸づくりで世界に挑む」

◆事業の背景
大工道具の市場が縮小傾向のなか、八角形の箸で新たな活路を見い出す。

マルナオ株式会社は、もともと神社仏閣の彫刻師として活躍していた福田直悦氏が、その技能を活かして大工道具の墨坪車(すみつぼぐるま)の製造を開始したのがはじまりで、昭和14年に創業された。墨坪車は、墨のついた糸を張って木材に線を引くための道具で、木材を切る時などに使用される。そのなかでも、マルナオの墨坪車は、緻密な龍の彫刻などが施されていることが大きな特長だ。以来、大工道具としての高い精度と芸術性を兼ね備えたものづくりは、今日に至るまで代々受け継がれている。

しかし、平成18年に3代目の代表取締役に就任した福田隆宏氏は、大工道具の市場が年々縮小傾向にあることに危機感を覚え、新たな事業の柱を築きたいという思いに駆られるようになった。そうしたなか、福田氏が着目したのが、黒檀や紫檀を材料に用いた箸の製造だった。

「箸は、日本人が日常生活で頻繁に使うものです。なおかつ、マルナオで代々受け継がれてきた大工道具の製造技術を活かせる分野なので、ぜひ挑戦したいと考えたのです。」

箸を製造するに当たり、福田氏が当初からこだわり続けていたのは、箸の先端を極力細く(直径1.5ミリ)し、箸の持ち手から先端まで八角形の形状に統一することだった。

「箸の先端を細くすると表面積が少なくなるので、口当たりが非常によくなります。たとえば、お刺身などを食べた時に、素材のうまさだけが口に広がります。さらに、、先端を八角形にすることで、小さな豆などもつかみやすくなります。」

その一方、一般的な箸は、加工しやすいように先端が丸くなっている。また、先端が丸いとつかみづらいので、先端の部分に滑り止めの塗料を施しているものもある。しかし、この場合は、舌先にざらざらした感触があるため、嫌う人が多い。そこで、福田氏は既存の箸の問題点を解消し、これまでにない良質な箸を作りだそうと一念発起した。
新潟県三条市の本社工場。この地から世界へ羽ばたく

◆事業の転機
消費者の潜在ニーズを喚起し、大手百貨店でロングセラーに。

だが、直径1.5ミリの先端部分を八角形にする箸づくりは、決して容易なことではない。箸を削る際のテンポや集中力が重要になるので、ベテランの木工技術者でもセンスがないと作るのは難しいという。そこで、福田氏は自ら職人としての技能を磨き、試行錯誤を繰り返しながら理想とする箸を作り上げ、箸の製造という新規分野を切り拓いていった。

そうした中、大きな転機になったのが、三条市の商工会議所が主催する見本市に箸の自信作を出品したことだった。それが大手百貨店のバイヤーの目に留まり、自社の店舗で販売したいと声をかけてきた。しかし、大手百貨店のバイヤーは、当初は手づくりの高価な箸が本当に売れるのか半信半疑だった。そのため、実際に商談が成立するまでに2年以上を要した。

いざ百貨店でマルナオの箸の販売したところ、そのバイヤーが想定していた予算額の3倍以上の商品が売れた。さらに、最初は物珍しさから新商品が売れるケースがあるが、マルナオの箸は、その後も快調に売れ続けていった。それは、福田氏の箸へのこだわりが、日々の食事をもっと楽しみたいという消費者の潜在ニーズと見事に合致した証だった。
福田氏がこだわり抜いて生み出した極上八角箸

◆事業の飛躍
海外の見本市に戦略的に出品し、世界的な著名なシェフも購入。

箸の新規事業が徐々に軌道に乗るなかで、福田氏は更なる飛躍を果たすべく海外市場にもいち早く目を向けた。ドイツのフランクフルトで開催された世界最大規模の国際消費財見本市に箸を出品。箸の出品は珍しいため大きな反響があったが、その時点ではオーダーはほとんど入らなかった。その理由は、欧米では箸を取り扱っている店舗自体がとても少ないからだ。

そこで、福田氏は海外戦略を練り直し、海外市場で受け入れやすいステーショナリー(レターオープナーや定規など)やカトラリー(スプーン、フォーク、ナイフなど)の製造に着手する。いずれも木製なので、箸づくりのノウハウを活かせることが大きな強みだった。その後、海外の見本市で木製のスプーンやフォーク、ナイフと一緒に箸を並べ、それらをセットで販売したところ、一気にオーダーが増え始めた。ミシュランガイドで「世界一星を持つシェフ」と称されているジョエル・ロブション氏も、その一人だった。

かくしてマルナオの業績は順調に拡大。福田氏が代表取締役に就任する以前は、大工道具の売上が全体の99%を占めていたが、現在は、箸が70%、大工道具が15%、ステーショナリーやカトラリーが15%を占めるようになった。かといって大工道具の売上自体が減ったわけではない。それ以上に新規分野の売上が大きく伸びたのである。

◆今後の事業と課題
若手の職人を育成しながら世界のトップブランドを目指す。

マルナオの緻密な箸づくりは、誰でもすぐにできるわけではないので、若手の職人を育成することが今後の重要な課題だ。福田氏は若手育成にもぬかりがない。

「ステーショナリーやカトラリーは、箸に比べると比較的作りやすいので、まずはステーショナリーやカトラリーで技能を磨き、そのうえで、箸づくりに挑戦するという流れが出来上がっています。こうすることで自社製品の売上アップと技術者の育成を同時並行で進めています。」

また、地元の子どもたちなどにものづくりの醍醐味を実感してもらうため、本社の工房をオープンファクトリーとして公開するなど、地域の活性化にも貢献している。平成26年10月に開催された「燕三条 工場の祭典」では、八角形の箸づくりの体験コーナーを設置。その参加者のなかには、フランスのパリからわざわざ足を運んでくれた人もいた。今やマルナオの箸は海外でも広く知られるようになったのである。

だが、福田氏は現状の成果に満足しているわけではない。今後も国内外の見本市にマルナオの箸を積極的に出品し、その認知度を更に広めていく考えだ。

「マルナオの目標は、世界において、箸のトップブランドになることです。幸い、箸を専門に製造している競合会社はほとんどないので、近いうちにぜひ実現したいと思います。」

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【株式会社 安田製作所(愛知県みよし市)】

(トラック用幌・幌枠の製造・販売、パイプ曲げ、溶接加工)

〈従業員5名、資本金1,000万円〉
代表取締役安田岳史氏

「先代から受け継いだ社員を思いやる経営が、ユーザーの使いやすさを追求した新商品を作る」

◆事業の背景
ゴルフネットからトラックの幌枠へ。確かな溶接技術が会社の強み。

大型トラックの荷台に綿やポリエステルなど厚手の帆布製生地を覆い被せることで、荷物を雨や埃、落下の危険から防ぐ幌。これを取り付けることで大切な荷物は守れるが、その反面、荷物の出し入れは困難になってしまい、作業の効率が悪くなるというデメリットも伴う。そのような不便を解消するために作られたのが、側面を開閉できる幌である。側面開放式幌は近年、アルミ製のものが多く普及しているが、アルミ製の幌より古くから存在していたのが、帆布製の側面開放式幌だ。そんな側面開放式幌を40年近く製造してきたのが、株式会社 安田製作所である。

同社は昭和39年、先々代の安田茂氏が創業、平成25年に安田岳史氏が三代目の代表取締役に就任した。創業当時は主に家庭用のゴルフネットの製造を行っていたが、昭和48年のオイルショッック後に注文が減少。しかし、同社の溶接技術が認められ、県内の会社から下請の仕事が入るようになった。この元請会社が大型トラックの側面開放式幌を製造・販売する会社であり、この頃から安田製作所は側面開放式幌の枠組みの製造を請負うこととなる。注文は徐々に増え、販売が軌道に乗ると、波はありながらも月間120~180台程度の受注があり、ピークだったバブル期には月間約400台を生産していたという。

「私は学生時代から、親に『お前は好きなことをやりなさい』と言われてきたこともあり、大学卒業後は県内のソフトウェア会社に入社しました。しかし、自分のなかでは『いつかは父の跡を継ぐのだろうな』と思っていましたし、また、仲の良い友人からも『おまえは家業のほうが向いている』という進言を受け、26歳の時に安田製作所へ転職しました。」
会社の代表となった現在でも現場で作業を行う安田岳史氏

◆事業の転機
バブル後も順調だった会社にやって来た最大の試練。下請体質からの脱却。

岳史氏が加わり、新たなスタートを切った安田製作所だったが、その4年後のリーマン・ショックで事態は一変する。100台以上あった月間の生産台数は20台にまで落ち込み、下請の仕事に頼っていた会社の経営は一気に逼迫していった。

「うちの会社には溶接の技術しかなく営業力もなかったので、新しい仕事に転換することもできず、『なんとかしなければ』という焦りだけが募っていました。」

この頃、岳史氏は軽トラックの側面開放式幌の製作を考えていた。しかし、受注台数が少なくなったとはいえ、いまだに会社の主な収入源は下請の仕事に依存するところが大きく、軽トラックの側面開放式幌の分野に手を出すことには躊躇があった。しかし、その後も会社の経営は悪化の一途をたどり、岳史氏は平成25年、意を決して軽トラック用の側面開放式幌の開発に着手する。すでに他社から側面開放式幌は販売されていたが、岳史氏は「丈夫で使いやすい商品を作れば必ず売れる。」という自信から、これまで培ったノウハウを活かし、新商品開発に取り組んだ。独自にパーツ設計を行い、試行錯誤を繰り返しながら、平成25年の年末、「ラクホロウィング」を完成させた。

◆事業の飛躍
これまでのノウハウを活かして完成した、お洒落でポップな新商品。

「『ラクホロウィング』は、幌の開閉をワンタッチで行えるように設計し、開閉に要する時間は既存商品の半分の約10秒でできるようにしました。幌の色も24色から選べるようにするなど、お洒落でポップなイメージに仕上げました。」

完成した商品の販売を前に、岳史氏は近所の農家の方々にモニターを依頼した。するとそこには、思いもよらぬ壁が立ちはだかった。

「軽トラックを利用している農家さんは、ほとんどが小規模な農家さんでした。小規模農家さんは軽トラックを1台だけ持っているケースが多く、その1台で収穫した野菜から農機まで運ばなければならないということを知りました。しかし、『ラクホロウィング』は周囲を幌で囲っているため、荷台からはみ出るような長いものなどは搭載できません。こうした問題点を解消するためには、もうひと工夫加えた商品が必要でした。」

そのような中から生まれたのが、「ラクホロ」だった。「ラクホロ」はワンタッチで扉の開閉ができず、背が低く大きな荷物を積むこともできないが、その代りに骨組みから幌まで、1分もあれば一人で軽トラックの荷台に設置できるというものだった。載せる荷物の大きさに応じて手軽に脱着が可能なため、「ラクホロウィング」の欠点を補える商品となった。「ラクホロ」以外にも2つのタイプの幌が誕生し、平成26年9月、正式に販売を開始する際には4商品を揃えることができた。さらに「ラクホロ」は実用新案権も取得した。

価格を抑えるため、代理店は通さず、販売は全てインターネットで行うことにした。そこで岳史氏は中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」の申請を行い、補助金の一部を商品のホームページ作成に利用した。
工場の中心に据えられた一枚板では、一反(12~13メートル)の反物をそのまま染められる

◆今後の事業と課題
インターネットを使わないお年寄りを、どう取り込んでいけるかが課題。

新商品開発にともない、憂慮していた元請会社との関係も良好だという。

「商品ラインナップは現在、5種類となりました。販売開始から1年半で、全シリーズの累計販売台数は100台を超え、農家の方だけでなく、趣味で利用する方も増え、裾野の拡大も実感しています。それでもまだ、会社の収入の8割近くは下請の仕事に頼っているのが現状です。これからは、少しずつでも下請の割合を減らしていくのが目標。そのためには、インターネットを使わないお年寄りの農家の皆さんに、どう知っていただけるかが課題ですね。」

さらに岳史氏は、今後もユーザーに使いやすい商品を作り続けていきたいという。その裏には、父からのこんな教えがあった。

「入社当時から、父には『社員を大事にしなきゃダメだよ』と教えられてきました。その教えを守るためにも、とにかく、お客さまを第一に考えた商品を作り続けていきたい。それがやがては、社員の皆さんを大切にすることにつながると思っています。現在、会長に退いた父は、『よく頑張ったな』と言ってくれます。」

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【山元染工場(京都府京都市)】

(舞台等衣裳専門製造一式、型友禅による染加工・金彩・縫・仕立)

〈従業員2名〉
3代目の母山元久仁子氏、4代目(現代表)山元宏泰氏、テキスタイルデザイナーでもある妻桂子氏

「長年続く家業の技術を活かし、オリジナルブランドを起ち上げる」

◆事業の背景
86年続く、舞台や時代劇の衣裳作り。技術力とスピードが大きな信頼を獲得。

競争相手不在のニッチな業界で、どう仕事を発展させるか。京都・山元染工場の代表である山元宏泰氏がそのような悩みを持つ理由は、同工場が属する業界と業務の特殊性にある。屋号に「染」の文字が入るが、同工場は大手貸衣裳会社からの依頼で、時代物の映画やドラマ、舞台で使われる衣裳や小物一切の製造を行っている。時代背景や登場人物に合わせて衣裳の色やデザインを決め、染め加工、縫製まで、全てがオーダーメイドだ。最近では幕末から明治期を舞台とする朝のドラマでヒロイン姉妹の性格を着物で表現し話題を集めた。

創業は昭和5年。山元氏の祖父が型友禅の工場で丁稚奉公したことにさかのぼる。当時の大スターである阪東妻三郎の女中頭との結婚が縁で映画衣裳を手掛けるようになり、折からの日本映画ブームにのって舞台衣裳専門の工場を設立した。

「うちには創業から86年の間に蓄積した10万枚以上の型紙(和柄)があります。その中から時代や身分に合う柄を選び、映像や舞台で最も映えるよう、特別に調合した色や技法で染め上げます。」

厳しい納期の仕事が多いが、デザインや配色はテキスタイルデザイナーでもある妻の桂子氏が、染色は宏泰氏のほか、今や京都でも珍しい「濡れしごき」という染色技法を操る母の久仁子氏が担うことで、作業を一気通貫で行い製造のスピードを維持している。
工場の中心に据えられた一枚板では、一反(12~13メートル)の反物をそのまま染められる

◆事業の転機
家業を直撃した東日本大震災。初めて発信したSOSで気持ちが前向きに。

長年、贔屓筋と強固なネットワークを築くことで、安定した営業を続けてきた同工場が危機に見舞われたのは平成23年。東日本大震災を境に業界は軒並み“ハレ”の舞台を自粛。この状況は2年間続き、売上は下降線をたどる。宏泰氏が経営を引き継いだ平成25年当時は、まさに苦悩の日々だった。というのも、仕事の特殊性ゆえ、技術を盗もうとする人が後を絶たなかったことから、「業務内容は他言無用」が家訓。当然、誰かに打開策を相談することもできず、孤立無援の状態だった。加えて、同工場が京都の歴史とともに歩んできたことも、足かせとなった。

「京都の人間は他人に内情を話すのは“恥”、という思いが強いのです。」(宏泰氏)

そのような状況を変えるきっかけを作ったのは、三重から嫁いできた妻の桂子氏。いってみれば“よそ者”でもある桂子氏の「商工会議所に相談に行ってみよう。」という言葉が宏泰氏の背中を押した。思い切って商工会議所を訪れ、「困っている。」と初めて人に打ち明けたことで、宏泰氏は気持ちが前向きになり、ずっと心を覆っていたモヤが晴れたという。

そのかいあって、商工会議所からはさまざまな制度や補助金の紹介を受けることができた。なかでもターニングポイントとなったのは、京都府が中小企業を応援するために施行した「知恵の経営」の実践モデル企業に応募したこと。商工会議所の支援員や専門家など、外からのサポートを受けながら申請書類をまとめる過程で、問題点や目標がより明確になり、その結果、「知恵の経営」モデル企業に認証されたことが大きな自信となった。

◆事業の飛躍
培った歴史と技術を武器に、新しいニーズを探る。

明らかになった一番の課題は「新規マーケットの開拓」。冒頭で触れたように、同工場は限られた取引先からの受注のみで経営を続けてきたが、この先、時代物の映画やドラマが増える保証はない。そこで家訓には背くが、まずは同工場の歩み、技術等をPRするホームページの開設に踏み切った。大げさなようだが自身で情報を発信する、ということは同工場にとって方針の一大転換なのだ。また、ドラマや映画で納品した衣裳は一切、手元に残らない。このため、訪れた顧客が手に取り、製品のクオリティを確かめられるよう、納品した衣裳と同じものを製作することを考えた。この時、中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」が役に立ったという。

さらに、新規事業にも着手。それが桂子氏デザインによるテキスタイルブランド「ケイコロール」だ。同工場に伝わる何千種もの安土桃山時代用の型紙から、現代の感覚にあったものを選び、バッグや小物に加工して売り出そうというもので、試作品は百貨店のバイヤーなどから一定の評価を受けた。桂子氏も「大量生産のラインに乗せるのではなく、手仕事の美しさを伝えていきたい。」と、今後のビジネスの広がりに期待を寄せる。一方、桂子氏に触発されるように、宏泰氏はドラマ用にデザインした古典柄を使った、優雅なバッグや風呂敷などの和小物へのチャレンジを検討中だ。
ドラマでも話題になった衣裳。昔から残る型紙を使い、デザインや配色は桂子さんが担当
安土桃山時代用の型を使い、現代風にアレンジした「ケイコロール」の作品

◆今後の事業と課題
家業から外に開かれた“会社”へ。技術を未来へつなぎ、人を育てたい。

こうして動き出した新しい試み。宏泰氏によると、まだ大きな結果を残すまでには至っていない。

「問合せは増えたものの、今年度はドラマの受注が多く、製作に追われていたため、思うように新規開拓は進みませんでした。その時々の状況に左右されるのが小さい工場ならではの悩みどころです。」

焦りがないといえば嘘になるが、ただ売上を伸ばせばいいと考えているわけではない。新たな挑戦は工場を社会に貢献できる“会社”にしたいという思いがあるからだ。現在、同工場で働くのは家族3人。人手が必要な繁忙期は、大学でテキスタイルを教えていた桂子氏の教え子を呼べば事足りる。「しかし」と宏泰氏は言葉を続ける。「紡いできた技術は家族だけでは、いつか絶えてしまうかもしれない。一方で染色を学んでも働く場所がない若者も多い。新しい仕事を生み出すことで、技術を残し、雇用も創出できる。今すぐは無理でも、そのような社会に開かれた“会社”に育てていきたいと思っています。」

家業を守ることだけに腐心していた頃には見えなかった目標が、外に目を向けたとたんに定まってきた。それが伝統を100年、200年とつなぐ、第一歩になるはずだ。

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【ジャパンフィルター株式会社(東京都足立区)】

(車両・電器機・油空圧・建設機器用金属フィルター・ストレーナーの製造)

〈従業員11名、資本金1,000万円〉
代表取締役木村恒之氏

「フィルターの微細加工技術で厳しい事業環境に順応」「熟練職人の知恵と技を承継し、新たな事業に挑戦する」

◆事業の背景
高度成長期の自動車産業に身を置いて、部品メーカーとして起業する。

地下鉄千代田線の北綾瀬駅近く、足立区の閑静な住宅街の中にジャパンフィルター株式会社はある。工場なのでさぞうるさかろうと思いきや、周りの住宅に溶け込んでひっそりとした佇まいだ。応対していただいた代表取締役の木村恒之氏も、物腰の柔らかなご年配で、気難しい職人には見えない。それもそのはずで、木村氏の社会での駆け出しは、自動車部品メーカーの営業マンだそうだ。時は高度経済成長期、日本の自動車産業が飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した時代だ。木村氏は15年間、この自動車部品メーカーで業界の事業ノウハウを学んでいった。そして昭和49年、37歳の時にジャパンフィルター株式会社を起業。

「営業として販売先や仕入先との関係は持っていましたから、自信はありました。」

では、どうしてフィルターだったのか。

「自動車用フィルターは、自動車メーカーごとに仕様が違っていて大量生産が難しいのです。だから大手が手を出さない。小規模事業者でも十分太刀打ちできると踏んでいました。」

その勘はあたった。すぐに大手メーカーからの注文が入り始め、事業は順調に立ち上がる。当初は、親戚の工場で生産した商品を仕入れて販売していたが、設立後3年目には自社生産に切り替え、現在の事業体制が整った。

◆事業の転機
微細加工技術で差別化を維持。しかし世界経済が業界を揺さぶる。

フィルターとは、液体や気体の不純物を取り除くもの。その中でも、ジャパンフィルターの主力商品は自動車用フィルターだ。主にディーゼルエンジン車の燃料やオイルを供給するパイプに取り付け不純物を取り除く。自動車メーカーとしては、エンジンや制動装置の耐久性や燃費などの性能を左右する重要な部品なので、各社が独自の仕様で製造を委託する。この自動車用フィルター、かなり繊細な代物だ。完成品はわずか数ミリ、大きくても数センチ。さまざまな形状の細かい金網を裁断して、折ったり丸めたり、それに口金を付けて溶接したり接着したり圧着したりと、手作業での微細加工の末に完成する。どの完成品も当初の仕様通りの性能を発揮する必要があるので、熟練した職人の知恵と技が求められる。大手が敬遠するのも肯ける。

しかし、平成の時代に入り、世界規模での景気変動が自動車業界を揺さぶることになる。為替の変動は、自動車メーカー工場の海外移転を加速させ、後を追うように大手部品メーカーもそれに続き、部品の受注は低迷する。新興国の躍進は、安い労働力を武器に低コスト部品の国内流入を招き、国内に残された部品メーカーは窮地に立たされる。国内各所で町工場が廃業に追い込まれていった。ジャパンフィルターも例外ではない。

「受注量は確かに減りましたね。だから少量の注文でも対応していく必要があります。幸いなことに、我が社にはフィルター加工という特殊な技術があります。この技術を守っていくことが当面やるべきことだと思うのです。」
自動車用フィルターの完成品微細加工が必要で機械化は難しい
フィルターの素材となる金網これを手作業で加工していく

◆事業の飛躍
熟練の技術をマニュアル化。若手社員の入社で若返りを図る。

フィルター加工の職人が一人前になるには10年はかかるそうだ。ジャパンフィルターの熟練職人も60代を超え、高齢化が進んでいた。

このままでは事業が継続できなくなる日が来るのではないかと、専務取締役の木村真有子氏は危機感が覚えていたという。

「若手を確保するには、まず技術を承継するマニュアル化が必要だと思っていました。でも、その方法は簡単ではありません。熟練職人の知恵や技を文字や図で表現しなければなりませんから。」

そこで、東京商工会議所に相談したところ、厚生労働省の「キャリアアップ助成金制度」の活用を勧められた。コンサルタントを派遣してもらい、その指導の下に「ジョブ・カード制度」を活用して2名の若手訓練生を迎え入れ、ベテラン社員が講師となって職業訓練を行いながら、カリキュラムやマニュアルの作成にチャレンジした。

「想像したより大変でしたが、社員が一丸となって取り組んだ結果、何とかクリアできました。おかげさまで、2名の訓練生も無事社員として採用できましたし、これで我が社の従業員平均年齢も55歳から50歳に若返ることができました。」と、木村専務は嬉しそうに語ってくれた。

事業環境の早期好転が望めない今、小規模製造業者は逆境に立ち向かい、自らを環境に合わせていく努力を続ける必要がある。ジャパンフィルターも、製品の品質管理は当然のこととして、図面の管理や事業所環境の整備、英文への対応など、まだまだやるべき課題は多いという。

「我が社は、近隣の主婦の方に内職的な作業を依頼していますし、短時間正社員制度で雇用の創出にも一役買っていると思います。40年間残業なしの勤務環境も維持しています。地域あっての会社であること、地域に貢献する会社であることを大切にしていきたい。社長の意志を将来につなげていくためにも、常に新しい目標に向かって社員とともに努力して、我が社は存続し続けなければならないと思います。」

◆今後の事業と課題
ものづくり人材を育てて、厳しい環境に柔軟な発想で立ち向かう。

高齢化が進んでいるものづくり零細企業の経営環境は、ますます厳しさを増している。廃業・倒産に追い込まれれば、地域から技術が失われ、地域における協力会社も大きな打撃を受け、ものづくりの土台が崩壊する危険をはらんでいる。当然ながら、それは地域の雇用の喪失に直結するだろう。

「1億総活躍時代はスローガンとして良いのですが、地域の雇用を作り出してきたと自負している零細企業にとっては、社員に対する社会保障などの負担が今後増えれば、経営は厳しくなります。我が社に持ち込まれる受注内容を見ても、他社で製造していた商品と思われる事例もあり、『廃業により消える技術を拾えるように、企業間をマッチングする仕組みがあれば技術が継承されるのにな』と考えることもしばしばです。」

今は順調なジャパンフィルターといえども、現在の商品に囚われ過ぎるてはいけない。フィルター加工技術を応用した新商品や自社ブランド化を、柔軟な発想で進めたい考えだ。「それには、やっぱり人材。人を育てる企業であり続けたいと思います。」

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【株式会社 沓掛工業(長野県上田市)】

(工場板金加工、溶接、製缶加工、治具・設備・装置等の製造)

〈従業員14名、資本金1,000万円〉
代表取締役沓掛恵介氏

「技術、設備だけで町工場の成長は望めない」「技術者の意識向上とチームワークこそが強みになる」

◆事業の背景
多様なニーズに応える板金&溶接のプロとして、地域に根を張り成長を続ける。

多くの企業にとって「人材」は大切な経営資源の一つである。有能な社員の確保はもちろん、その後の社員育成は経営者にとって重要な課題だ。そのため、名の知れた大企業は毎年、多くの予算や人員を投じて採用活動を行う。一方、ブランド力の弱い中小企業は常に苦戦を強いられるのが現状だ。

昭和33年に産声を上げ、40年以上にわたり板金と溶接の技術で製造業界の一翼を担ってきた沓掛工業も、やはり人材の確保と育成に苦労してきた企業の一つだ。現在、長野県上田市に工場を構える同社は現社長である沓掛恵介(くつかけ けいすけ)氏の祖父が始めた金物屋をルーツに持つ。主に地域のニーズに応える形で、金属製品を手作りしていたそうだ。

その後、昭和44年には板金加工業として法人化し、10年後には現在の本拠に工場を建設。平成6年に恵介氏の父である沓掛和男氏が三代目社長に就任したのを機に機械設備を増強し、フレーム加工や制御盤等の工場板金の分野に進出。着実に発展を続けてきた。しかし、好調だった景気がITバブルの崩壊で下降線をたどる頃、和男氏が病に倒れたことをきっかけに、潜在的な問題が噴出することになる。それが、人材教育だ。
社屋外観

◆事業の転機
当事者意識が希薄なまま参加させた、社外研修が思わぬ落とし穴に。

和男氏は、誰よりも長い時間仕事をし、掃除を継続して行うなど、自らの姿勢で会社を引っ張るという意識が強かった。

忙しい時期も、自分が休まず働くことで対応していたが、自身の体調が悪化した際、技術者でもある和男氏の仕事をカバーする社員が不足していたことから、「腕の良い職人である前に、良い経営者でなければ。」と、それまでの経営スタイルを反省したという。そして「ともに会社の課題に向き合える社員を育成したい。」と、社外研修、セミナー等に社員を積極的に参加させ、社員の意識改革に乗り出した。しかしそれらの研修を実施したことで、また異なる問題も生まれたと、現社長である恵介氏は振り返る。

もともと家業を継ぐ気はなく、同社の改革期には大手電気機器メーカーに籍を置いていた恵介氏だったが、両親の健康状態や家業の将来を危惧し、メーカーを退社。平成18年に同社に入社する。新入社員として新たなスタートを切った恵介氏は入社早々、妙な違和感を覚えることになる。

「確かに研修を導入したことで会社の雰囲気は良くなっていたと思います。しかし、一部に歪んだ意見がまかり通っていました。たとえば、私たちの仕事では、『不良品を無くす』のは当たり前のことです。ところが研修で『仕事のミスを互いに責め合ってはいけない』と聞いてくると、『ミスを責め合うことにつながるから不良品を無くす活動は止めよう』という、こじつけの理屈を生み出す。研修内容に問題はありませんが、参加者の当事者意識が希薄だと都合のいい解釈をしてしまう。それは一部の意見なのですが、少人数の企業であるが故にその影響は相対的に大きく、会社の動きに強いブレーキをかけるものでした。」

当時はITバブル崩壊から経済状況が回復し、製造業は多忙だったため、こういった“歪み”は仕事の量に埋もれ見逃されてきた。しかし、達成すべき売上に届かない。微妙に生産性や製品の精度が下がってくる。小さな歪みが徐々に同社を蝕んでいった。

◆事業の飛躍
社員全員で行う「工程点検」と「5S活動」が、主体性を生み、工場の雰囲気を変えた。

そもそも同社はラインで製品を作るような大量生産型の製造業ではない。少量でも、短い納期でも対応する、小回りが利く企業として評価されている。そういった業態では臨機応変に仕事の段取りを組む必要があり、最も重要になるのは社員間のコミュニケーションである。入社間もなく、技術者でもない恵介氏は強い発言権も持っていたわけでもないが、手遅れになる前に二つの取組を始めた。

「まず、社長も含め社員全員で各工程を見回って、問題点を洗い出す会議を始めました。『この工具が足りない』といった小さなことも、現場の社員から聞き出すわけですが、これまで対応していなかったことが原因ですから、耳の痛い話ばかりです。それを私が全部メモをとって、その日からできることは全部対応していくわけです。自分たちの発言がそのまま現場に生かされるので、次第に職場の雰囲気が変わっていくのが感じられました。社員の間に主体的に考え、動こう、という意識が少しずつ芽生えたのではないでしょうか。」

そして、同時並行で進めたのが「5S」活動。その一例が工程点検の際に行った工具の“断舎離(だんしゃり)”だ。工場内の道具類を全部集め、全員で相談しながら不要なものを捨て、必要な物を必要な場所に割り振っていく。同じ様にして、レイアウトを変えたり、ペンキを塗ったりして、職場環境を社員目線で整えていった。

「社長一人が先頭を切っていくワンマン体制ではなく、私は『みんなの同意を得ながら進める』ということをやっただけ。みんなが納得し、自分の意見で職場が変わり、自分たちの手で整理整頓し、職場がきれいになる。時間はかかりますが、こういう取り組みの中で、『自分は尊重されている』『現場で働く自分が重要なプレーヤーである』ということに気付いてもらいたかったのです。」
工場内部の様子

◆今後の事業と課題
社員同士で高め合う社員教育。「人づくり」は「手づくり」で。

同社に入社以来、社員の意識改革、工場改革に取り組んできた恵介氏は平成24年、社長に就任。今も、社員のモチベーションを向上させるさまざまな試みを続けている。

「家業とはいえ、町工場で働くのは初めての経験です。当時、いろいろカルチャーショックも受けましたが、現場の社員が報われていないことも気になりました。日々の業務は工場内での作業ですから、注目されることも、顧客に直接感謝されることもほとんどない。これをなんとか変えていきたい。たとえば、若年の社員も発言できる場を設けたり、展示会に出展する時は誰かが主役になれるように権限を割り振ったり、仕事の出来が良い時はみんなでほめる。そのようなことを続けていると、会社の雰囲気がどんどん変わってくる。些細なことの積み重ねですが、結局、『人づくり』は『手づくり』です。」

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【谷上社寺工業 株式会社(和歌山県橋本市)】

(社寺屋根工事業)

〈従業員16名、資本金2,000万円〉
代表取締役谷上永晃氏

「“伝統技術の継承”を念頭に置いた、計画的な人材の育成を推進する」

◆事業の背景
明治初期創業の老舗を襲う、さまざまな時代の変化。

1000年以上続く日本の伝統技術である檜皮葺(ひわだぶき)。脂分を多く含む檜皮は雨による腐食に強いことから、社寺建築などで多く使われてきた。30~40年ごとに葺き替えが必要となるが、谷上社寺工業(たにがみしゃじこうぎょう)株式会社は明治4年の創業以来、100年以上もの間、屋根の葺き替えを生業としてきた。

「橋本市周辺には、明治以前から高野山の社寺の葺き替えなどを行う職人集団が多くいました。初代もそのような職人の一人だったと聞いています。」

五代目に当たる代表取締役の谷上永晃(たにがみ ながてる)氏は、会社の由来をこう語る。当時から、県内だけでなく、京都や奈良、遠くは中国地方まで足を延ばし、屋根の葺き替えを行ってきた。ピーク時だった昭和初期には、橋本市内はもちろん県内にも多くの同業者がいたそうだ。ところが戦後になると檜皮葺のニーズが激減する。

「昭和30年頃に税制が改正され、檜皮の供給元が次々と山を手放し、檜の伐採が始まりました。檜皮は樹齢100年以上の檜から採取するため、供給が追いつかなくなってきたのです。一方、需要面でも高度経済成長を背景に、これまで檜皮葺だった社寺も、より耐久性の高い銅板の屋根を採用するようになった。ちょうど祖父の時代です。」

同業者の多くは廃業や転業を余儀なくされていった。同社も同様で、本来の檜皮葺の仕事はほとんどなく、銅板工事などで何とかやりくりした。こういう状況は昭和40年代まで続く。谷上氏がこの世界に入ったのはちょうどその頃。最も厳しい時代だった。

「一人、また一人と職人が辞めていき、十数人いた従業員が7人ほどまでに減少した。」という。
桜井市にある作業場で檜皮を加工する職人の皆さん

◆事業の転機
仕事は戻れど “職人がいない”。人材育成の大切さを痛感。

風向きが変わってきたのは、昭和50年頃のことだ。文化財保護の重要性が見直され、従来の合理性重視から一転。“本来あるべき姿に戻そう”と文化庁の方針が転換した。これにより銅板の屋根に変えた社寺が、一斉に伝統的な屋根に戻すこととなり、檜皮葺のニーズが再び高まっていく。だがここで、業界全体の問題となったのが深刻な職人不足だった。

「当然ですが、檜皮葺の需要がなかった昭和30年代から40年代に職人としてこの世界に入ってきた人はほとんどいなかったのです。」谷上氏はここで人材育成の必要性を痛感することとなる。

もちろん、職人の育成が急務となった業界も、この状況を指をくわえて見ていたわけではない。昭和49年には文化庁の指導のもと、「屋根技能士養成研修事業」を立ち上げ、職人の育成に力を入れ始めていた。立ち上げ当時こそ、研修に参加するのは各事業所の後継者などが主だったが、開始10年を過ぎた頃からは、外部から職人を目指す若者も増えてきた。

だがそのような中、谷上氏は、研修事業に頼るだけでは不十分だと感じていた。

「檜皮葺職人の場合、一人前になるのに10年ほどかかります。志半ばで辞める子も多い。昔から半数残れば良い方だといわれています。当社ではそれを見越して独自に採用を行ってきました。」

そのような地道な人材育成の成果は、従業員の年齢構成にも現れている。現在、従業員として働いている職人は13人。60歳台が1名、50歳台が3名、40歳台4名、30歳台3名、20歳台2名と非常にバランスがとれている。彼らが3~4人のチームを組み、それぞれの仕事に当たる。

「人材育成という面で肝となるのが、伝統技術の継承です。屋根の本来の役割は『雨漏りさせない』ことなので、その技術を習得した上で、伝統的な美しさを表現する力を養う必要がある。そのためには多くの建物を見て個人個人の感覚を研ぎ澄ませていく必要もあるでしょうし、その感覚を皆で共有しなければなりません。だから現場では、上下の関係なく積極的に意見交換を行うよう心がけてもらっています。」

◆事業の飛躍
国宝や重要文化財などを中心に、屋根の葺き替えを手がける。

葺き替えを手がけるのは、国宝をはじめ、国や都道府県の重要文化財などが中心。近年は西日本のみならず、関東地方などで仕事を行うこともあるそうだ。本社は今も橋本市だが、檜皮の加工など下地作りの工程は、事業所のある奈良県桜井市で行っている。規模の大小により異なるが、屋根の葺き替え工事にかかる期間は1ヵ月から数年。長い場合は10年かかることもある。

「まずは事業所で、檜皮を用途別に分ける『洗皮(あらいかわ)』、その後、5寸の長さに綴じ合わせる『綴皮(つづりかわ)』といった檜皮の加工を行います。その上で現地に赴いて葺き替え作業をするといった具合です。出雲大社の葺き替えには10年ほどかかりました。」

同社が手がけてきたのは、他にも橿原神宮や熊野本宮、厳島神社、善光寺(山門)など、そうそうたる社寺が名を連ねる。
橿原神宮本殿での屋根の葺き替え風景・檜皮葺が終了したばかりの熊野本宮大社

◆今後の事業と課題
檜皮葺きという伝統技術を、未来へしっかりと継承するために。

近年の歴史ブームなどもあって、文化財に対する人々の関心が高まっている。加えて、新たに指定される文化財も多く、この傾向は今後も続くと見られている。つまり屋根の葺き替えという仕事の絶対量は増えているといっても良いのだが、課題は尽きないと谷上氏は警鐘を鳴らす。

「本来、伝統の継承というのは、先輩からきっちりと学んだ技術を自分なりに解釈、更に改良し、それを次世代に伝えることで初めてなし得るもの。業界全体で見ても、個々の事業者単位でも、果たしてそれができているのか。次世代にきちんと伝えることができるのか心配です。」

そのような中、谷上氏は檜皮葺きという伝統技術の素晴らしさを多くの人に知って欲しいという思いから、文化庁主催の「ふるさと文化財の森システム推進事業」に参画、檜皮葺きの実演などを毎年行っている。

「檜皮葺は日本が誇る伝統技術です。我々には、この技術を保つことで日本の文化財を守り、しっかりと後世に残していく使命があります。だからこそ伝統技術の裾野を広げる意味でも、一人でも多くの人に檜皮葺の良さを知って欲しい。これが未来の職人の育成、ひいては伝統技術の継承にもつながるのではと思います。」

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【谷上社寺工業 株式会社(和歌山県橋本市)】

(社寺屋根工事業)

〈従業員16名、資本金2,000万円〉
代表取締役谷上永晃氏

「“伝統技術の継承”を念頭に置いた、計画的な人材の育成を推進する」

◆事業の背景
明治初期創業の老舗を襲う、さまざまな時代の変化。

1000年以上続く日本の伝統技術である檜皮葺(ひわだぶき)。脂分を多く含む檜皮は雨による腐食に強いことから、社寺建築などで多く使われてきた。30~40年ごとに葺き替えが必要となるが、谷上社寺工業(たにがみしゃじこうぎょう)株式会社は明治4年の創業以来、100年以上もの間、屋根の葺き替えを生業としてきた。

「橋本市周辺には、明治以前から高野山の社寺の葺き替えなどを行う職人集団が多くいました。初代もそのような職人の一人だったと聞いています。」

五代目に当たる代表取締役の谷上永晃(たにがみ ながてる)氏は、会社の由来をこう語る。当時から、県内だけでなく、京都や奈良、遠くは中国地方まで足を延ばし、屋根の葺き替えを行ってきた。ピーク時だった昭和初期には、橋本市内はもちろん県内にも多くの同業者がいたそうだ。ところが戦後になると檜皮葺のニーズが激減する。

「昭和30年頃に税制が改正され、檜皮の供給元が次々と山を手放し、檜の伐採が始まりました。檜皮は樹齢100年以上の檜から採取するため、供給が追いつかなくなってきたのです。一方、需要面でも高度経済成長を背景に、これまで檜皮葺だった社寺も、より耐久性の高い銅板の屋根を採用するようになった。ちょうど祖父の時代です。」

同業者の多くは廃業や転業を余儀なくされていった。同社も同様で、本来の檜皮葺の仕事はほとんどなく、銅板工事などで何とかやりくりした。こういう状況は昭和40年代まで続く。谷上氏がこの世界に入ったのはちょうどその頃。最も厳しい時代だった。

「一人、また一人と職人が辞めていき、十数人いた従業員が7人ほどまでに減少した。」という。
桜井市にある作業場で檜皮を加工する職人の皆さん

◆事業の転機
仕事は戻れど “職人がいない”。人材育成の大切さを痛感。

風向きが変わってきたのは、昭和50年頃のことだ。文化財保護の重要性が見直され、従来の合理性重視から一転。“本来あるべき姿に戻そう”と文化庁の方針が転換した。これにより銅板の屋根に変えた社寺が、一斉に伝統的な屋根に戻すこととなり、檜皮葺のニーズが再び高まっていく。だがここで、業界全体の問題となったのが深刻な職人不足だった。

「当然ですが、檜皮葺の需要がなかった昭和30年代から40年代に職人としてこの世界に入ってきた人はほとんどいなかったのです。」谷上氏はここで人材育成の必要性を痛感することとなる。

もちろん、職人の育成が急務となった業界も、この状況を指をくわえて見ていたわけではない。昭和49年には文化庁の指導のもと、「屋根技能士養成研修事業」を立ち上げ、職人の育成に力を入れ始めていた。立ち上げ当時こそ、研修に参加するのは各事業所の後継者などが主だったが、開始10年を過ぎた頃からは、外部から職人を目指す若者も増えてきた。

だがそのような中、谷上氏は、研修事業に頼るだけでは不十分だと感じていた。

「檜皮葺職人の場合、一人前になるのに10年ほどかかります。志半ばで辞める子も多い。昔から半数残れば良い方だといわれています。当社ではそれを見越して独自に採用を行ってきました。」

そのような地道な人材育成の成果は、従業員の年齢構成にも現れている。現在、従業員として働いている職人は13人。60歳台が1名、50歳台が3名、40歳台4名、30歳台3名、20歳台2名と非常にバランスがとれている。彼らが3~4人のチームを組み、それぞれの仕事に当たる。

「人材育成という面で肝となるのが、伝統技術の継承です。屋根の本来の役割は『雨漏りさせない』ことなので、その技術を習得した上で、伝統的な美しさを表現する力を養う必要がある。そのためには多くの建物を見て個人個人の感覚を研ぎ澄ませていく必要もあるでしょうし、その感覚を皆で共有しなければなりません。だから現場では、上下の関係なく積極的に意見交換を行うよう心がけてもらっています。」

◆事業の飛躍
国宝や重要文化財などを中心に、屋根の葺き替えを手がける。

葺き替えを手がけるのは、国宝をはじめ、国や都道府県の重要文化財などが中心。近年は西日本のみならず、関東地方などで仕事を行うこともあるそうだ。本社は今も橋本市だが、檜皮の加工など下地作りの工程は、事業所のある奈良県桜井市で行っている。規模の大小により異なるが、屋根の葺き替え工事にかかる期間は1ヵ月から数年。長い場合は10年かかることもある。

「まずは事業所で、檜皮を用途別に分ける『洗皮(あらいかわ)』、その後、5寸の長さに綴じ合わせる『綴皮(つづりかわ)』といった檜皮の加工を行います。その上で現地に赴いて葺き替え作業をするといった具合です。出雲大社の葺き替えには10年ほどかかりました。」

同社が手がけてきたのは、他にも橿原神宮や熊野本宮、厳島神社、善光寺(山門)など、そうそうたる社寺が名を連ねる。
橿原神宮本殿での屋根の葺き替え風景・檜皮葺が終了したばかりの熊野本宮大社

◆今後の事業と課題
檜皮葺きという伝統技術を、未来へしっかりと継承するために。

近年の歴史ブームなどもあって、文化財に対する人々の関心が高まっている。加えて、新たに指定される文化財も多く、この傾向は今後も続くと見られている。つまり屋根の葺き替えという仕事の絶対量は増えているといっても良いのだが、課題は尽きないと谷上氏は警鐘を鳴らす。

「本来、伝統の継承というのは、先輩からきっちりと学んだ技術を自分なりに解釈、更に改良し、それを次世代に伝えることで初めてなし得るもの。業界全体で見ても、個々の事業者単位でも、果たしてそれができているのか。次世代にきちんと伝えることができるのか心配です。」

そのような中、谷上氏は檜皮葺きという伝統技術の素晴らしさを多くの人に知って欲しいという思いから、文化庁主催の「ふるさと文化財の森システム推進事業」に参画、檜皮葺きの実演などを毎年行っている。

「檜皮葺は日本が誇る伝統技術です。我々には、この技術を保つことで日本の文化財を守り、しっかりと後世に残していく使命があります。だからこそ伝統技術の裾野を広げる意味でも、一人でも多くの人に檜皮葺の良さを知って欲しい。これが未来の職人の育成、ひいては伝統技術の継承にもつながるのではと思います。」