地域経済の活性化に資する事業活動の推進の事例

出典:「2016年版小規模企業白書」(中小企業庁)を加工して作成

【株式会社 目細八郎兵衛門商店(石川県金沢市)】

(針製造・販売業)

〈従業員8名、資本金1,000万円〉
代表取締役目細勇治氏

「加賀の伝統工芸「めぼそ針」「加賀毛針」を守るために、挑戦を続ける金沢随一の老舗商店」

◆事業の背景
加賀藩主を唸らせた針の技術が、県の伝統工芸品、「加賀毛針」の礎に。

「加賀百万石」として知られる石川県は加賀藩の庇護のもと、江戸時代に優れた伝統工芸や伝統文化が花開いた地。それらは今も人々の誇りであり、北陸新幹線の開業にともない増加した観光客にとっては、金沢観光の目玉でもある。国や県が指定する県内の伝統工芸は36を数えるが、その一つがこの地の鮎釣りで古くから使われてきた「加賀毛針」。創業440年の歴史を持つ金沢市の目細八郎兵衛(めぼそはちろべい)商店は、この毛針を明治から製造してきた老舗中の老舗だ。

創業は、天正3年(1575年)にさかのぼる。縫い針の製造販売に始まり、初代八郎兵衛は成形の難しい絹針の目穴を「丸」から「細長い楕円」にアレンジする独自のアイデアで、縫い糸を通しやすい針を開発。城にも献上していたこの針は評判を呼び、加賀藩主より「めぼそ」を針の名として下賜され、これが現在の屋号と目細姓の由来ともなった。同社の黎明期を支えた「加賀毛針」と「めぼそ針」は、同じ針とはいえ用途も形状もずいぶん異なる。20代目店主に当たる目細勇治社長は、この二つの針を扱うようになった経緯を、金沢独特の鮎釣りが影響したと説明する。

◆事業の変遷
手工業や鮎釣りが衰退する中、時代の流れを巧みに泳いだ店主たち。

「加賀藩は外様でありながら100万石の大名でしたから、幕府も警戒の目を向けており、藩は武芸の代わりに鮎釣りを奨励しました。そのようななか、武士たちが縫い針を曲げて、“返し”の無い『加賀毛針』を発案し、その針を使った釣りがこの土地ならではの鮎釣り(ドブ釣り)として定着しました。」

当時、武士にしか許されなかった鮎釣りが明治の世となり庶民にも広がると、次第に「加賀毛針」の需要は増加。同社も縫い針の製造技術を応用した「加賀毛針」の製造販売を開始し、老舗としての地歩を築いていった。この新しい商品に目を向けたのは決して成り行きではなく、明治以降、急速に進んだ機械化の波を見極めた末の判断だった。江戸時代は着物、畳、製本など、多くの製造業が縫い針を使う手工業で成り立っていたが、それが機械に取って代わられ、縫い針の需要が縮小する兆しが現れていた。新たな戦略商品と位置づけた「加賀毛針」も時代の流れには逆らえなかった。

「明治23年に第3回内国勧業博覧会に『加賀毛針』を出展した頃がピークだったようです。当時の写真を見ると、鮎の解禁日には市内を流れる犀川では岸はもちろん、橋の上まで釣り人が鈴なりでした。しかし戦後、釣り人口自体が縮小し、渓流釣り、ルアー、フライなど、釣りのスタイルも多様化したことで、鮎釣りをする釣り人は次第に減っていきます。」(目細社長)

◆事業範囲の拡大
店を支えた中心商材を見切らず、さまざまなアイデアで付加価値をプラス。

戦後、縫い針と加賀毛針の需要が急速に縮小するなか、先々代の頃には全ての釣具を扱う釣具問屋へと転換し、商いの規模を拡大することで身代を守ってきた。このように同社は440年にわたる歴史の中で、何度も時代の変化を乗り越えてきたが、常に時の店主が腐心してきたのは、「針づくり」の技術を守ることだ。売上の中心が釣具問屋に移った今も、「めぼそ針」、「加賀毛針」は同社の看板として輝きを放っている。

しかし、この「加賀毛針」を未来に残していくためには大きな問題があった。それが技術の継承だ。現在では加賀毛針の職人は同社の4名の職人を含め、石川県全体でわずか8名にまで減少。このまま手をこまねいていては、製造技術を継承する人は失われる。その対策として生まれたのが、同社オリジナルのアクセサリー「フェザーアクセサリー」である。きっかけは偶然で、20年ほど前に始まったブラックバスブームの際、先代がブラックバス用の毛針を作り店頭に置いたこと。加賀毛針に比べ、色鮮やかでサイズも大きな羽根を使うことから、その美しさに目を引かれた観光客の女性が「ブローチにしたら素敵ですね」と漏らした一言に先代が注目し、釣具の疑似餌に使う羽根を用いたアクセサリーの製造をスタートさせた。その製造に「加賀毛針」伝統の技術が使われているのはいうまでもない。

◆今後の事業と課題
自社の伝統工芸を守るだけではなく、金沢全体の工芸品を守るのも老舗の役割。

「フェザーアクセサリー」は次第にブローチ、コサージュ、ピアスへと、アイテムを増やし、平成27年に完成した新社屋1階に設置したギャラリースペースの大半を埋めるまでに成長した。

「毛針の職人さんになりませんか、と誘ってもなかなか難しいですが、こういったアクセサリーを作ってみませんか、といえば興味を持ってくださる女性もいる。今、3年目の職人として働く女性も、このアクセサリーづくりをきっかけに毛針を巻く技術を習得しました。」(目細社長)

この「フェザーアクセサリー」に加え、目細社長は若者の間で人気が高まりつつある渓流釣りで使用する針に「加賀毛針」の技術を応用したり、「めぼそ針」についても針山や裁縫セットなどの周辺商品を開発したりすることで、新たなニーズ開拓を目指している。

「針山や裁縫セットは思った以上に評判をいただいていますので、もっと新しいアイデアを出してビジネスとして軌道に乗せていきたいですね。加えて、さまざまな金沢の伝統工芸品を組み合わせ、互いに協力しながら金沢のさまざまな伝統工芸を守っていくのも、440年にわたりこの地で伝統工芸を守ってきた老舗としての役割だと思っています。」

そう話しながら、目細社長が指し示す先には金沢の伝統工芸である加賀染めを使った針山や、九谷焼の若手作家の作品を組み合わせた商品が並ぶ。このように長い年月、広い視野で商いを行ってきた目細八郎兵衛商店のような存在があってこそ、加賀藩由来の伝統工芸は永遠に伝承されていくのだろう。

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【株式会社あいさいか(愛知県愛西市)】

(各種食料品小売業)

〈従業員5名、資本金600万円〉
専務取締役田中秀彦氏、代表取締役吉川靖雄氏、常務取締役冨田喜八郎氏、店長鈴木治長氏

「コンビニの空き店舗を直売所に変え、小規模農家が農業を続けられる環境を提供」

◆事業の背景
農協に出荷できない生産者のため、直売所の設置を模索。

愛知県愛西市は、平成17年2町2村が合併して発足した。地域の新鮮な野菜や果物、切り花や苗などを販売する「株式会社あいさいか」は、その八開地区(はちかいちく)にある。この地域は木曽川を隔てて岐阜県に隣接しており、木曽川が育んだ肥沃な土壌により豊かな農村地帯を形成してきた。

「この地域は畑作地域で、レンコンや人参、大根、イチゴが特産品です。砂地で土に小石などが混じっていないので、根菜がきれいにまっすぐ育ちます」と語る吉川靖雄氏は、この地で長らく農業を営みながら、農協の組合長や市議会議員も務めた経歴を持ち、あいさいかの社長でもある。

この歴史ある豊かな農村地帯も、日本の他の農村地帯と同様、高齢化の波に襲われている。後継者が少なく、高齢化により規模の縮小化が進み、耕作できなくなった畑地も増え始めている。

農産物の農協への出荷形態には共選と個選があり、共選は手数料がかかるが単価は優遇される。ただし、一定量以上なければ共選では出荷できない。また、以前は近隣に卸売市場があり手軽に持ち込むことができたが、近年市場の統合が進み、出荷のために遠方まで運搬しなければならなくなった。このため、生産量が少なく、遠くまで出荷できない小規模農家にとって、出荷そのものが高いハードルとなっている。

そこで、現在の吉川社長と田中秀彦専務は、農産物の直販所を併設した道の駅を誘致しようと、行政にかけあった。「しかし、道の駅は基本的に1つの市町村に1か所で、愛西市には既に道の駅があるため、新しくは作れないと分かりました。」(吉川氏)

◆事業の転機
空きコンビニ店舗を活用し、地域になくてはならない店舗をオープン。

そのような折、同じく元市議会議員で不動産業を営む田中氏の元に、空き不動産物件の相談が持ち込まれた。廃業したコンビニエンスストアである。しかし、人口減少が続く農村地帯で新たに店舗を開業したいという人は、そうそう見付からない。なんとかならないかと吉川氏に相談し、行政頼みではなく、自分たちの手で地域の小規模農家が出荷できる販売所を作ろうと話がまとまった。

「店舗がそのまま使えましたし、駐車場もあり、直売所としては十分でした。遊んでいても固定資産税がかかるので、持ち主に家賃を安くしてもらうようお願いして、店を始めることにしました。」(田中氏)

吉川氏と田中氏は、花の生産農家である冨田喜八郎氏を誘い、3人が役員に就任して会社を設立。それぞれの仕事は続けながら、店舗の運営を始めた。平成22年のことである。

6年目となる現在、ある程度顧客が定着し、販売農家も着実に増えている。現在の販売登録者は約200名。扱う作物の種類によって、年に数回しか作物を持ち込まない生産者もいれば、頻繁に持ち込む生産者もおり、約半分の100名前後が常時持ち込んでくる。
同社は同時に、パンや菓子など一部の日配品も置き、地域の雑貨店の役割も果たす。地域の雑貨店が高齢化で無くなり、コンビニも撤退し、車でなければ買い物もできなくなっていた。ここができたことで、高齢者が徒歩や自転車で気軽に買い物ができるようになった。

「こういう直販所ができたことで、もう辞めようかと思っていた生産者も農業を続けられます。本人にも生き甲斐ができ、健康も保てます。耕作放棄地になる畑を減らせるので、地域にとってもいい。」(吉川氏)

今や同社は、新鮮で安価な野菜や果物を求める外からの来訪者にとって魅力的であるだけでなく、地域の住人にとってもなくてはならない店舗となっている。
廃業したコンビニを活用した店舗
自慢の新鮮野菜や果物に加え、一手間かけたむき銀杏やレンコン焼酎など品揃えは豊富

◆事業の飛躍
講習会や情報提供により、生産者に工夫を促す。

同社の特長は、地域の新鮮な野菜や果物が手に入ることだけではない。特産品であるレンコンを使った「レンコン焼酎」など、地域で開発した他では手に入らない商品の販売なども行っている。

品ぞろえも豊富で、カリフラワーの一種であるロマネスコや、中南米原産のキク科の根菜ヤーコンなど、普通のスーパーではなかなか手に入らない野菜も置いてある。このように多彩な品目がそろうのは、同社が行う講習会や各種情報提供によるところが大きい。

「毎年行う総会に、産直に精通する講師に来てもらい、話をしてもらいます。愛知県の農業試験場の元部長、農協の子会社の社長など情報をたくさん持っている人に来てもらうので、勉強になります。新しい情報を伝えてもらうと、会員も同じものばかり作っていては売れないと、変わったものを試したり、同じものでも時期をずらしたり、みんな考えるようになります。」(吉川氏)

さらに、お店での売れ筋や、業界紙の売れ筋ランキングなど、生産者に役立ちそうな情報も積極的に提供。それぞれの生産者に工夫を促している。

同社のパート従業員のなかには野菜ソムリエもおり、目新しい野菜の食べ方を教えたり、試食品を提供したりするなど、顧客への情報提供も怠らない。従業員にとっても職場の満足度が高いようで、現在まで1人も入れ替わりがないという。
切り花や花の苗も豊富に揃えている

◆今後の事業と課題
大型化と企業体質の強化、後継者の育成・選定が課題。

同社の人気に競合店も目を付け、最近は産直コーナーを設置するスーパーが近隣に増えている。そのため、駐車場を含めた店舗の拡張が現在の課題だ。

「やはり、こういう場所はバスが停まれることが必要で、トイレの整備も重要です。ただし、いずれもかなりのお金がかかります。土地の問題もあり、すぐには整備できませんが、そのうち拡張したいですね。」(吉川氏)

そして、役員3人ともが70代を超えた同社最大の課題は、後継者だ。

「われわれ3人には別に仕事があり、極端なことをいえば利益がでなくてもやっていけます。しかし、次の人にそれを強いるわけにはいかない。そのためにも、まずしっかり利益が出る体質を作ろうと、商工会を通じて中小企業診断士に相談することにしました。そうした基盤を築いたうえで、5年以内には後継者を決めたいと考えています。」(吉川氏)

愛西市の野菜を愛する人にとっても、地域の小規模農家にとっても、これからの5年が正念場となる。

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【光浦醸造工業 株式会社(山口県防府市)】

(味噌・醤油及びその他関連加工食品の製造・販売)

〈従業員20名、資本金1,000万円〉
代表取締役光浦健太郎氏

「乾燥レモン入りレモンティーがけん引役に」「会社の規模を拡大させ、街づくりに貢献したい」

◆事業の背景
将来を見据えて、自ら事業承継を提案。

中小企業経営者の平均年齢は上昇傾向にあり、承継者不足も深刻化している。多くの企業が承継問題にあえいでいるなか、慶応元年(1865年)の創業以来、防府市大道の地で、味噌と醤油を150年以上にわたり作り続けている光浦醸造工業 株式会社では、8代目となる光浦健太郎氏が世代交代を機に事業を拡大し続けている。

幼少時代から祖父や父の働く姿を見て育った光浦氏は、家業を継ぐことに抵抗もなく、農業大学を卒業後、実家の醸造所で働き始めた。何の疑問も持たずに目の前の仕事をこなす毎日だったが、入社2年目頃、会社のホームページを自分で作り始めた時、考え込んでしまった。

「ホームページを作りながら愕然としました。書くことがないし、職場の写真なんて恥ずかしくて載せられない。商品紹介のページには業務用の味噌と醤油しかない。会社に何の特徴もないことに気付きました。」

その時はまだ行動に移せなかった。将来を真剣に考えたのは、平成18年に結婚し、家族に対する新たな責任が生まれてからだった。

「業務用だったので取引先に卸す量も単位が大きく、もし何社かでも契約を切られたら経営難に陥ります。そんな不安を抱くようになりました。それに、味噌と醤油はいい意味で完成された調味料なので、業務用での改良の余地も少ない。先が見えてしまい、このまま単に事業を継いでいいのか真剣に考えました。いろいろな葛藤の末、『一般家庭向けの自社商品を開発するなど新たな試みが必要。そのためには、親が上司ではやりにくい』と思い、自分から父に、会社を譲って欲しいとお願いしました。」

そして光浦氏は、平成20年、31歳の若さで家業を継いだ。
昔ながらの製法で大豆を発酵させ、味噌と醤油を製造

◆事業の転機
引け目を感じない商品づくり。新製品開発への取り組み。

最初に手掛けたのが、味噌を無添加にすることだった。

「物産展などでお客さまが品質表示ラベルを見て、がっかりした表情をされることがあります。そのような時は、引け目を感じていました。だから、良い素材を使って、心からお客さまに勧められる商品を作りたいと思いました。」

もちろん急に全ての添加物を止めたら別の味になってしまう。また、無添加にすることで、発酵が活発になりパッケージが膨らみやすい、塩分が強くなるなどの課題もあった。そのため、1年毎に少しずつ添加物を減らし、10年の歳月をかけて無添加にしていった。

「外国産の大豆を、安全な国産にもしました。利益率は下がりましたが、いいものを作りたいという自分の気持ちを最優先させました。」

併行して新製品開発にも取り組んだ。歴史のある蔵元だが、市販品を販売していなかったので“光浦醸造”というブランド名は浸透していなかった。そのため、新しい商品の開発で、“伝統”という縛りを感じることもなかったという。

「洋風料理に味噌を使うレシピがありますが、どうしても味噌の味が前面に出てしまいます。そこで、洋風料理に使える味噌を作ろうと思いました。いろいろな豆で試作したところ、ひよこ豆にたどり着いたのです。」

ネーミングからパッケージデザインまで全て自分で行い、光浦氏が自信作と胸を張る「ひよこ豆みそ」が、約2年後に完成。そのほかにも、独自の製法を用い、国産の原料を使用した100%植物性の「ひよこ豆とごまのドレッシング」や、だし、ポン酢などを次々と開発していった。

◆事業の飛躍
万人向けの商品がけん引役となり、昔からの商品も再認識されることに。

“引け目を感じることのない商品”ができたものの売れない。そもそも、こだわりを持って料理をする人が興味を示す商品なので、お客さまが限られてしまう。それでも、知ってもらわなければ売れるものも売れない。そこで万人向けの商品も意識するようになった。

「乾燥機を販売する会社を経営する同級生から『乾燥機を使ってもらえないか』と相談を受けました。最初は、味噌や醤油を乾燥させようと思いましたが、面白くない。すると、その会社にオレンジを乾燥させたサンプルが置いてありました。それでレモンティーを思い付きました。」

紅茶の葉も国産にこだわった。インターネットで茶葉を取り寄せて、乾燥レモンに合う葉を選んだ。こうして乾燥させた輪切りのレモンと紅茶パックをセットにした新しいタイプのレモンティー「フロートレモンティー」が完成。狙い通り、ネットショップなどで評判を呼んだ。

「原料を国産にこだわったのは、海外市場を視野に入れていたからです。“MADE IN JAPANの紅茶”という部分は強みになると思いました。」

その後、ある人の紹介でハート形のレモンを作る農家と出会った。
「見た瞬間、『これはうちのためにあるレモンだ』と思いました。」
ハート形の乾燥レモンが浮かぶレモンティー「レモンハート」を発売すると、これが瞬く間に人気を呼び、現在は生産が追い付かなくなっている。レモンティーが注目されることで、味噌や醤油など昔からの商品も改めて注目されるようになった。
今では商品カテゴリもバラエティに富む・抽選販売を行っているという「レモンハート」

◆今後の事業と課題
会社の規模を拡大して、魅力ある街づくりに取り組む。

ヒット商品がけん引役となり、ほかの商品も売れ行きが伸びている。海外市場への進出も、台湾を皮切りに展開していく予定だ。

「商品の見直しや新製品開発をするなど突き進んできましたが、会社として何か目的を持ちたいと思いました。自分にできることは何だろうと考えた時、生まれ育った大道という、ごく普通の田舎町を、魅力ある街にしたいと。そのためには規模を大きくして、影響力のある会社にしたいと思いました。」
街づくりの手始めに、来年、大道駅の近くに本社を移転する。生産量を上げるために、社員も増やしていくという。

「今までは、企画から製造方法、パッケージ作りにいたるまで、全てを私がこなしてきました。会社を成長させるうえではそれではだめ。これからは役割を分散し、新商品を作る楽しさ、評価を受けた時の喜びを、社員と共有したいと思います。」
人材育成にも力を入れていくと同時に、地域の雇用創出にも一役買いたいと話す光浦氏。事業承継という大きな決断をし、歩み続けてきたことについて「間違いではなかった。」と胸を張って言える。

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【出雲ゲストハウス いとあん(島根県出雲市)】

(宿泊業、飲食業)

〈従業員0名〉
オーナー熱田糸帆氏

「観光客も地元住民も自由に集う『コミュニティスペース』」「集う人が運営し、使い方も考えるユニーク空間」

◆事業の背景
シェアハウス生活の経験から、コミュニティの在り方を学ぶ。

会社勤めを辞め、自身で事業を始める場合、その理由はさまざまだ。東京と神戸で会社員生活を送り、平成25年に生まれ故郷の島根県出雲市に戻った熱田糸帆(あつた しほ)氏の動機はなかなか一言では言い表せない。強いていえば、サラリーマンの業務習慣が彼女の仕事観に合致しなかった、ということだろうか。

「実は学生時代から、いずれは起業したいとは思っていました。ただ、その前に一度は会社員を経験しておいたほうがいいと考え、東京と神戸で会社員生活を送りましたが、業務上の事柄をほとんど自分で判断させてもらえない点が納得できなかった。判断しないということは、責任も負えないことになり、私はそういう仕事にやりがいを感じることができませんでした。」

そして熱田氏はそれまでのキャリアとは、まったく異なる道を選ぶ。それが、ゲストハウスの経営だ。着想のきっかけとなったのは、神戸で経験したシェアハウスでの生活。さまざまな年齢、業種の人々が集まり一つ屋根の下に住む、まさに「同じ釜の飯を食う」暮らしは、彼女の「今」につながっている。

「大人数で一緒に住むというのはすごく効率がいい。住居のシェアという単純なメリットだけではなく、それぞれの住人が持っているスキルや物資をシェアする暮らし。それは効率的で楽しく、お金が無くても豊かになれるのです。」

経験から導かれたこの考えは、平成27年4月にオープンした「出雲ゲストハウス いとあん」と、続いて同年11月にオープンさせたコミュニティラウンジ「ツドリバ-RO(ろ)-」の経営に色濃く反映されていく。

◆事業の概要
すでにあるものの価値を最大化。投資も抑えて、ゲストハウス開業。

自身が経験したシェアハウス生活でその魅力に触れ、シェアハウス経営の希望を抱き、地元である出雲の知人に物件探しを依頼したところ、ほどなく見付かったのは廃業した小さな古い旅館。古びてはいたが、5つの和室それぞれが異なる飾り窓や床の間を備え、細部に職人の技が見て取れる稀少な物件だった。もちろんシェアハウスとしても使える物件だが、この物件の最も有効な利用法を考えた熱田氏はすぐさま方針を転換し、ゲストハウスの経営を決めた。

まず、建物用途が旅館として申請されているため用途変更の必要がない。そもそも旅館だったので、リフォームが最低限で済む。出雲観光の玄関口であるJR出雲市駅から徒歩3分という立地も魅力的。その上、徒歩5分の至近距離に温泉がある点もゲストハウス運営に有利だった。

「人が持っているスキルや知識をシェアすることで生まれる効率はシェアハウスの生活で学びましたが、ここも同じ考え方でゲストハウスを作り、運営しています。物件の良さはそのまま残し、リフォームは最低限にとどめ、スタッフに関しても雇用は一切なく、アルバイトもいません。ただ、なぜかしら手伝ってくれる人はいて、食事と宿代をタダにする条件で大工仕事をしてくれる人や、店番をしてくれる人などが集まってくれています。」

◆事業の飛躍
顧客サービスと地域コミュニティを共通のスペースで実現。

「出雲ゲストハウス いとあん」が軌道に乗ると、次に着手したのはコミュニティスペース。ゲストハウスは宿泊に加え、「ゲスト同士の交流」も魅力の一つのため、共用のリビングを持つことが多い。しかし「いとあん」は間取りの問題で設置を見送り、ゲストハウスにほど近い扇町商店街にコミュニティスペースを設けた。ゲストハウス開業に遅れること7か月で完成したコミュニティラウンジ「ツドリバ-RO-」はゲストハウスのリビングとしては破格の広さを持ち。宿泊客はチェックイン後、こちらに立ち寄り、食事をしたり、パソコンで仕事をしたり、スタッフとおしゃべりをしたりして、自由に過ごす。

そして「ツドリバ-RO-」が持つもう一つの顔は、商店街の人々をはじめとする地元住民が集うコミュニティスペース。利用客をゲストハウスの宿泊客に限定せず、宿泊客、地元住民、そしてスタッフが交流する場として機能している。開店準備の過程では、商店街の人々や利用客が不要な家具などを提供し、スペースづくりに貢献したという。「ここに置かれているものは、ほとんどがもらい物。この大きなカウンターも廃材を提供してもらいました。」と熱田氏は笑うが、そのせいか何十年も前から変わらずここで営業しているような落ち着いた空間が出来上がった。このスペースにも「あるもの、持っている物をシェアして効率的に。」という熱田氏の哲学が生きている。
「コミュニティラウンジツドリバ-RO-」はゲストハウスから徒歩30秒・コミュニティラウンジ「ツドリバ-RO-」の内装は手づくり感に溢れ、温かみが感じられる

◆今後の事業と課題
集う人々の発想で成長するコミュニティスペースへ。

一般に事業をスタートすると、第一の目標は利益の向上だ。しかし、ゲストハウスの営業で熱田氏が望む利益は確保できているため、ここ「ツドリバ-RO-」は、少しスタンスが異なる。

「この施設も維持するために利益は必要ですが、利益向上を目指す考えはありません。もし、そうなってしまったら、コミュニティスペースではなくなってしまうので、自然の流れに任せています。私が『誰に来て欲しい』とか、『どう使って欲しい』という意図は持たず、どういうスペースにしていくかは、ゲストハウスの宿泊者、地域の人々など、ここに集まる人たちが考えてもらいたい。私もその中の一人として、みんなも私も楽しめることを考えていきたい。」

地域コミュニティの再生を目指すコミュニティスペースは全国に増えつつあるが、なかなか活用が難しいという声も聞かれる。緩やかな管理で発想を喚起するコミュニティスペースは、個人経営だからこそ可能なのかもしれないが、今後のコミュニティの在り方を示唆しているようにも感じられる。

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【ゆみちゃんストアー(高知県土佐清水市)】

(小売業)

〈従業員1名〉
代表濱田由美氏

「縁の下のミニスーパーとして、高齢者を見守り、安心して暮らせる地域づくりにも貢献」

◆事業の背景
生活に欠かせないスーパーが閉店。地域住民のために事業を承継。

大型スーパーやショッピングモールの進出により、小売店や小さなスーパーが経営難に陥るケースは少なくない。一方では、地域で唯一のスーパーとして、そこで生活をする人たちにとって欠かせない店もある。平成13年に起きた高知県西南豪雨災害で壊滅状態になりながら、住民の強い要望により経営を再開した高知県土佐清水市の農協ストアも、人口500人あまりの地域に密着したスーパーの一つだった。しかし地元民の生活を支えてきた店も、平成18年、農協の事業所撤退を機に閉店が決まった。そうなれば、住民たちの生活が不便になることは明白。そこで立ち上がったのが、従業員として農協ストアに8年間勤務していた、濱田由美氏だった。

「経営の知識がないので最初は悩みました。でも、自分が生まれ育った土地で、子どもの頃からお世話になってきた人たちが困ります。私自身も仕事がなくなるわけですし、何よりもこの仕事が本当に好きだったのです。」

濱田氏は高校卒業後、名古屋にある会社に就職。2年後、父親の病気を機に地元に帰ってきた。その後結婚し、4人の子どもを育てながら農協ストアで働いていた。

「仕入れから商品の配置、レジまで全て私がやっていたので、お店の運営は分かっていました。でも、経理や税務の知識はゼロ。土佐清水商工会議所に相談し、手取り足取り、一から教えてもらいました。商工会議所の後ろ盾がなかったら、決断できなかったと思います。」

平成18年5月、農協ストアを承継する形で「ゆみちゃんストアー」を開業。建物は農協所有だったため賃貸契約を結んだ。商品の譲渡代金として300万円がかかったが、開業資金はそれのみ。その資金も農協から借りることができた。外装や内装、商品のラインナップどころか、「農協ストア」と書かれた看板もそのまま。唯一、「ゆみちゃん」という小さな看板を入り口の横に掲げてのスタートだった。
地域住民のニーズを考慮した商品が約1,000アイテム並ぶ・「たわいもない話をするのが、仕事のやりがいにもなっています。」

◆事業の転機
“縁の下のミニスーパー”として、なくてはならない店を目指す。

元々固定客がついていたので、開業から暫くは売上も順調だった。しかし高齢化が進み、高齢者以外の住民は市街地の大型スーパーで買い物を済ませる傾向が強まると、売上は徐々に下降線をたどっていった。将来の経営に漠然とした不安を抱き始めた頃、開業時に世話になった商工会議所の担当者が久しぶりに店に顔を出した。

「売上が落ちている原因の追究や、仕入先の見直し、中心顧客である高齢者により一層支持してもらうにはどうすればいいか、いろいろと一緒に考え、教えてもらいながら、初めて経営計画を立てました。」

中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」に申請するために経営計画書の作成が必要だったが、それが事業や濱田氏自身の強みを再認識するきっかけにもなったという。

「従業員として働いていた時を含めれば、15年近くこの場所で販売に携わってきましたから、どこにどんな方が住み、どんな生活をしているかまで把握しています。そんな方たちが何を必要としているのかも、普段の会話から情報として入りやすいのです。また、地域の慣習やイベントにも精通しているのも強み。たとえば、種まきの時期は野菜の苗を揃えるなど、時節ごとに必要なものが分かります。こうした強みを活かして、特に高齢者にとって、地域になくてはならない“縁の下のミニスーパー”を目指すことにしました。」
その結果、始めたのが「ゆみちゃんの宅配サービス」。電話で注文を受け、自宅まで商品を届ける宅配システムだ。すでに市街地では宅配サービスが行われていて、高齢化率が高い地域ほど移動販売や宅配への依存度は高くなることが分かっていた。

◆事業の飛躍
店舗での販売や宅配を通じて、高齢者の見守りを続ける。

「以前から、頼まれた時には無料で宅配をしていました。でも高齢者の方ほど、遠慮して頼みません。それならいっそのこと有料にしてシステム化すれば、気兼ねなく頼んでいただけると思いました。」

宅配料は1回100円。買い物が1,000円以上の場合は無料とした。配達は月曜日と木曜日の週2回だが、そこは融通をきかせ、空いた時間や帰宅途中に届けることもある。注文時の電話番号が分かりやすいように、電話機周辺に置けるプレートも作ったが、実はこのプレートから濱田氏の高齢者に対する温かな気遣いが伝わってくる。

「プレートの裏側が真っ白のままではもったいなかったので、かかりつけの病院と緊急時の連絡先を書けるようにしました。そうすれば、何かあって救急車が駆け付けた時、救急隊の人たちが迅速に対応できるでしょうから。」

宅配サービスを始めたことで、独居の高齢者の話し相手にもなれるし、安否確認もできる。店を訪れる高齢者たちも、彼女とのおしゃべりを楽しみにしている人は少なくない。軽い痴ほう症を患い、何度も同じ話をしてくるお客さまに対して、濱田氏は嫌な顔一つせず、優しく応対している。その姿が微笑ましい。

「貢献している意識はありません。」と謙遜するが、通常の販売活動や宅配を通じて、高齢者を見守り、安心して暮らせる地域づくりに一役買っていることは確かだ。
注文電話番号プレートの裏側には、緊急連絡先が書けるようになっている

◆今後の事業展開と課題
気遣いとフットワークの軽さを活かし、更に10年続けていくことが目標。

地域を支えるという経営理念が住民に支持されて、売上も維持できているそうだ。しかし高齢化が更に進んでいるという現実もある。

「人口が減るのは止められませんが、この地域、そしてお客さまのことを理解しているという自負があるので、それは強みだと思っています。常に周りを気遣っていれば、今回の宅配サービスのような気付きがあるはず。個人経営の小さなスーパーなので柔軟に対応できます。」
近隣にあった衣料品店が閉店をした時も、市街地にある衣料品店と提携し、高齢者向けの肌着や衣服の委託販売を始めた。お客さまのニーズを把握し、それをすぐに取り入れることをこれからも行っていきたいという。
「今年で10年目を迎えましたが、フットワークの良さも活かし、更に10年、続けていくことが今の目標です。」と、濱田氏は新たな決意を語ってくれた。

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【株式会社オフィスハート(沖縄県浦添市)】

(玩具・雑貨の企画・販売)

〈従業員4名、資本金100万円〉
代表取締役土屋よしこ氏

「憧れの沖縄に転居、『子育てをおもちゃで楽しむ』をコンセプトに創業」

◆事業の背景
大手玩具メーカーでの職務経験を活かし、沖縄で法人起業。

沖縄で株式会社オフィスハートを起業した土屋よしこ氏は、もともとは東京都の出身。高校生の時に旅行で訪れた沖縄の自然に強く惹かれたという。大学の美術学部では彫刻を学び立体物を作り出す面白さに出会い、幼少期から好きだったおもちゃという分野に関心が強く「面白いおもちゃが作りたい。」と大学卒業後は大手玩具メーカーに就職した。

入社後は新規事業部での製品開発に携わった後、ブランディングや店舗運営、販路開拓などの業務も経験。おもちゃ業界でのビジネスの基礎を体得した。仕事が楽しくて、寝ても覚めても仕事に没頭し、結婚・出産後も働くことへの意欲は変わらなかった。そうした中で自身の出産、子育てを機に「子どもが長く楽しめて、感性を高めるような“おもちゃ” が少ない。」という日本のおもちゃ事情に直面したという。同時に会社組織だからこその働き辛さや動きにくさに悩むことも多くなり、平成19年12月にオフィスハートを東京で創業した。オフィスハートの名前の由来は「心の通った仕事がしたい。」との思いから。

その後、もともと住むならここと決めていた自然の美しい沖縄に、平成22年1月、家族で転居。私物であるドイツのぬいぐるみや木のおもちゃを多数沖縄に持ち込んだものの、個人事業を継続するかどうかも未定だった。ところが沖縄に来てみると、大家族で子どもが多いものの、育児に関する情報の少なさや感性豊かに子どもを育てるという風土があまり根付いていないという現実を知った。

「私の持っているおもちゃの情報が、誰かの役に立てばと思いましたが、具体的にどうしたら良いか分らないでいました。」と当時を振り返る。

創業以来、オフィスハートの事業のコンセプトは“子育てをおもちゃで楽しもう”。沖縄に移り程なくして、木のぬくもりのあるシンプルなおもちゃで子育てを目指す「木育」が求められていることを知り、子育ての場に「子どもの感性を育む良質なおもちゃ」を提供しようと考えるようになった。
オフィスハートの社屋(カーサマチルダ)・取扱商品展示・販売コーナー

◆事業の転機
こだわりの木製おもちゃが評判を呼び、口コミで年間利用者が5千人超に。

沖縄に場所を移してオフィスハートが再スタート。当時、沖縄にはあまりないこだわりの木製おもちゃは、人づてやSNSを通じて徐々に評判が広がる。オフィスハートの知名度は上がり、市町村の子育て支援イベントの受託や出張おもちゃイベントへの参加要請などが増えていった。そして事業規模は徐々に拡大し、数千名規模のイベントの受託や常設広場でのおもちゃの普及事業などで沖縄のファミリー層とのつながりが深まっていったという。

とはいえ、法人化と時を同じく平成25年にスタートした木のおもちゃで遊べる施設「カーサマチルダ」(スペイン語の家“カーサ”と英語のママ・チルドレン・ダディを組み合わせた造語)は、沖縄では要望が多かったものの、なかなか経営が安定せず苦戦することになった。また部屋をレンタルして教室をやりたいと夢を抱くママたちも、部屋代を払えるほど集客できる人はごくわずかで、部屋貸し事業も予測以下。なかなか想定通りにはうまくいかなかった。

それでも利用者の声に耳を傾け、地道にホームページや口コミ、SNSなどを使ってPRすることで、少しずつ来店者が増え始め、新たな販売サービスやレンタルサービスが話題となり、今では年間利用者が5千人を超えるまでになっているそうだ。

◆事業の飛躍
オリジナルの木製おもちゃを開発。ファンを呼び込み、レンタル事業で弾みを。

しかし、販売事業では、来店者が多く一見繁盛しているように見えるが、来店して商品を確かめた後にネット通販で同じものを買う人もいて、なかなか収益にならない。

「ネットで買える商品では結局価格競争になるだけ。ネット通販にないオリジナルのものや、子どもの感性を育てる本当に良いおもちゃを作らないと結局勝てない、ということが分かりました。」と土屋社長は振り返る。

オフィスハートが扱う木のおもちゃは厳選中の厳選。「日本のおもちゃの開発現場にいて、子どもを遊ばせ、現場を見ているからこそできる。」と、木育の可能性を伝えることが強みになると考えた。

そして、県外の木のおもちゃデザイナーに協力を仰いだり、地元沖縄での独自性のあるオリジナル商品の開発に力を入れたり、売上の一部を良い遊びを普及するNPO法人に寄付する社会活動を行ったりすることで、オフィスハートファン獲得に取り組んでいった。

オフィスハートのモットーは「3歳までに良いおもちゃを、10歳までに遊ぶ力を」。自社施設の他、イベント先での出張体験、レンタル先でのおもちゃ遊び体験などを通して、沖縄のより多くの子ども達に「良い遊び体験を届けること」がオフィスハートの使命だ。

平成26年から、「カーサマチルダ」に用意していた木製のおもちゃやぬいぐるみを一定期間レンタルするというサービスも開始。家で遊んだらイメージが違ったということがないようにするもの。おもちゃのレンタルを通じで利用者とFace to faceのつながりができて、レンタル期間終了後にはおもちゃの良さを理解してもらい、購入につながることが多いという。「レンタル事業は、新しい事業モデルとして、まだまだ開拓の余地のある分野だと考えています。」と土屋社長は自信を見せている。
カーサマチルダ内にある「木のおもちゃ広場」

◆今後の事業と課題
子連れ出勤制度を採用。ママたちの活躍を支える。

沖縄には台湾や韓国からの観光客が多く、おもちゃのような生活雑貨にも関心が高まっており、オフィスハートのホームページと施設案内はすでに英語と台湾語に対応している。

当面はレンタル事業を軌道に乗せることが目標だ。事業拡大にはスタッフの確保が欠かせないが、スタッフはいずれも主婦。保育園の待機児童問題が深刻な中、キャリアが豊富なママたちが育児でまったく働かずにいるのはもったいない。それなら子連れでと、中小企業庁の「ママインターン制度」を活用して子連れ出勤制度を採用した。

「子どもは未来の宝。こどもを育て、ママたちと独自の事業を創りながら、おもちゃの力でもっと社会を良くしていきたい。」と土屋社長は今後の抱負を語ってくれた。

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【株式会社伝統デザイン工房(群馬県前橋市)】

(小売業、ネットショップ運営)

〈従業員7名、資本金500万円〉
代表取締役高橋万太郎氏

「伝統・地域産業に一石を投じ、醤油の蔵元と消費者の架け橋的な存在に」

◆事業の背景
大手企業をあっさり退社。商材として伝統・地域産業に着目。

日本の食卓に欠かせない調味料の一つ、醤油。あまり知られていないが、醤油の蔵元は全国に約1,300軒ある。昭和30年には約6,000軒あったので、現在は4分の1にまで減っているが、まだまだ商品数は多い。しかし流通システムが確立されていないため、これだけ多くの銘柄の醤油があることに気付かない消費者も少なくない。

ここに着目したのが、株式会社 伝統工芸デザインの代表取締役である高橋万太郎氏。全国の醤油を販売する「職人醤油」を運営している。

「ドラマティックな醤油との出合いなんて特にありません。私たちの世代は就職氷河期で、ベンチャーブーム。自然と起業を考えるようになりました。でも、すぐに起業できるわけもなく、3年を区切りと決めて就職したのです。」

平成15年に大手精密光学機器メーカーに就職、配属先は花形部署である営業部で、3年目には年収も1,000万円を超えていた。そんなエリート人生をあっさり捨ててまでやりたいことがあったのかというと、そうではない。

「伝統・地域産業に関わる仕事をしようと決めていただけで、それ以外、会社を辞めて何をするか具体的な計画は描いていませんでした。なぜ伝統・地域産業かというと、長く使われているものは良い物である可能性が高いということでした。」

平成18年6月に退社し、その3日後、結婚。新婚旅行は車での貧乏旅行。実はマーケティングの旅も兼ね、3か月かけて伝統・地域産業に関わる人たちと会い、全国約300アイテムを調査。自宅に帰ってからビジネスとして何が成り立つか分析した。

「『いいものを作っているのに売れない』という生産者の声があり、大量生産品と手作り品とを意識しないで消費者が購入している物なら、ビジネスチャンスがあると思いました。それが醤油でした。」

醤油は地酒と異なり、独自の流通網を持たない。また、地域独自の嗜好性が強いため、地域の卸業者は地域の醤油を全国に流通させても売れないと考える。結果的に限られたエリアでの販売となり、全国の消費者からすれば、買う手段どころか存在を知ることもできない状況だった。

◆事業の転機
高速道路1,000円を利用して蔵元巡り。100ミリリットルの小瓶での販売を開始。

商材を「醤油」と決めた高橋氏は、当時住んでいた自宅に一番近い蔵元を訪ねた。

「まず醤油のことを知るために、何軒か蔵元を訪ね歩きました。すると醤油のことが分かり始めた私でも、ラベルを見ただけでは、それが好みの味かどうか分からないことに気付きました。そこで、手軽に味比べができるように瓶を小さくすれば良いのではないかと思い、100ミリリットルの小瓶での販売に決めました。」

平成19年に同社を創業。同時期にホームページ「職人醤油」を立ち上げ、最初は8銘柄だけを販売した。

「恥ずかしいほどホームページの出来が良くありませんでした。それで醤油の良さをうまく使える方法はないかと考えて、『たくさんの種類の醤油が並んでいれば、それだけで人は感動するのではないか』と思い付きました。」

平成28年3月現在、41社80銘柄の醤油を販売している。これだけの数に増やすまで、400軒以上の蔵元を訪ね回ったという。

「ちょうど土日祝日の高速道路が1,000円で乗り放題の割引制度が実施中でした。日曜日の夜にETCを通り、月曜日の朝に目的地に着いたら金曜日の夜まで1日4~5軒の蔵元を回ります。1日の経費を5,000円と決め、半分はガソリン代、銭湯が500~700円ぐらい、寝泊りは車中でした。週3万円の経費で30軒ぐらいまわることができ、そうした蔵元巡りを3年ぐらいやりました。」

事前に面会を申し込まずに直接蔵元を訪ねた。当初は何度も怒鳴られたが、その後、目をかけてくれた蔵元や、意気投合して9時間も滞在した蔵元もあった。20代半ばの若者が真剣に醤油の販売に取り組もうとする姿に、蔵元も共感したのかもしれない。100ミリリットルの小瓶に100本程度、無料で醤油を詰めてもらったこともあった。
「職人醤油-こだわる人の醤油専門サイト」
商品を丁寧に包装。真摯に向き合う姿勢を示している・倉庫には41社80銘柄の醤油が並ぶ

◆事業の飛躍
雑貨店を中心に取引先急増。きちんとした対応で更なる信用を得る。

「職人醤油」に醤油の種類が増えていくと変化が現れた。購入者が徐々に増え、雑貨店を展開する企業から取引の依頼も来た。100ミリリットルサイズの醤油は、雑貨店では「かわいい」という消費者意識を生む。また、ボトルのラベルは蔵元の商品と同じデザインなので、醤油のミニチュアが棚に並ぶことでコレクション的な心理をくすぐった。あえて元の醤油と同じデザインのラベルにしたのは、気に入った醤油を消費者が蔵元から購入した時に、「試供品ではない本物の醤油が届いた。」と感じさせる意図もあった。

平成22年に子どもが生まれたのを機に、実家のある群馬県前橋市に移転。その際、事務所の半分を直営店にした。その後も次々と声がかかり、現在では全国約50社に醤油を卸している。ネットショップも順調。平成28年2月には銀座に直営の2号店をオープンした。

「特別な宣伝はしていません。唯一、会社の方針として掲げているのが“きちんとやる”こと。商品の包装に気を配るのは当たり前ですが、卸の荷物もガムテープを真っ直ぐ貼るなど徹底させています。また蔵元には、キャップの開け口とラベルが正面で合うようにお願いをしています。また、醤油の内容量も合わせています。蔵元がバラバラなので正確に量を合わせるのも難しいのです。でも細部まできちんとしていれば、きちんとした会社なのが伝わりますし、信用を得られます。」

◆今後の事業と課題
蔵元と消費者のつなぎ手になるために、直営店での全国展開を目指す。

現在は、ネットショップ・卸・直営店で、月に1万5千本から2万本を販売している。「(経営の秘訣は)しっかりとした商品セレクトをして、それを消費者に伝えることが大切だと考えています。それぞれの地域に直営店があり、そこには醤油に詳しいスタッフがいて地元の生産者と消費者を結びつけるのが理想。そのためにも、直営店を増やしていきたいと思います。いずれは醤油以外の調味料も手掛けたいと思いますが、まずは関西方面での出店拡大を目指します。」

小さな蔵元が一つにまとまるのは現実的には難しい。しかし、各地の蔵元の商品を一堂に品揃えして消費者に届けることが、自分にはできる。高橋氏は、蔵元や消費者と対等な関係を保ちつつ、いい意味での消費者との“つなぎ手”になりたいと話している。

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【株式会社和える(東京都港区)】

(日本の伝統産業の技術を用いた商品開発、販売)

〈従業員5名、資本金1,000万円〉
代表取締役矢島里佳氏

「伝統や先人の智慧と現代の私たちの感性を“和える” ことで、伝統産業品を日用品として赤ちゃん、子どもたちに伝えたい」

◆事業の背景
伝統と現代を“和える”。

日本には伝統産業品が全国各地に伝承されている。織物や染色品、陶磁器、漆器、木工品など、100年以上日用品として人々に愛され、匠の手工技術が代々職人によって受け継がれてきた。日本人の繊細な技によって磨かれてきた伝統産業品は、世界でも高い評価を受けている。しかし残念なことに、この貴重な文化が、職人不足や消費者の嗜好の変化から、廃れようとしている。それは、伝統の手工技術の継承が止み、貴重な日本の文化の灯が一つひとつ消えるということだ。

こんな状況から、全く新しい発想で伝統産業を現代に蘇らせようと挑戦している会社がある。「株式会社 和える」。代表取締役の矢島里佳氏は言う。

「伝統を支える職人さんたちを保護するだけではダメだと思います。私たちが伝統や先人の智慧を、もっと暮らしの中で“活かす”ことが必要です。それには現代に合ったデザインや用途を提案し、伝統産業の技を活かして製作した日用品を、日常的に使い続けることです。」

社名の「和える」とは、料理などで素材どうしを“あえる”という意味からきている。渾然一体と“混ぜる”のではなく、本質を大事に残したまま融合させる、これも日本人の“技”。伝統や先人の智慧と現代の私たちの感性を“和える”ことで、日本の文化を次世代につないでいきたいという矢島氏の想いが込められている。

◆事業の転機
日本に生まれたのに、日本のことを知らない日本人。全く新しいコンセプトで「和える」を起業。

矢島氏は、中学高校時代の部活動で茶華道に入部。無意識の内に日本の伝統に興味を持つようになっていた。その想いの強さは、高校3年生の時、テレビ番組「TVチャンピオン2 なでしこ礼儀作法王選手権」で見事優勝したことにも表れている。小学生の頃からジャーナリスト志望だった矢島氏は、ジャーナリスト輩出率の高い、慶應義塾大学法学部政治学科にAO入試を経て入学。入学後は、新聞記者やニュースキャスターなど、実際に現役で仕事をしている先輩を訪ねていった。その中で、自身は何を専門に伝えるジャーナリストになろうかと考え、中学高校時代の茶華道部の思い出が蘇り、伝統産業品に興味を持っていることに改めて気が付く。ものづくりの現場へ取材に行きたい、その想いから企画書を作り、大手旅行会社の季刊会報誌や大手週刊誌にて、伝統産業に関する取材記事を連載するなど、大学時代から情報発信の仕事を始めた。その中で、全国各地の職人に出会ううちに、日本の伝統産業の職人との輪が広がっていった。

また、自身の考えがビジネスとしてどう評価されるのかを確かめようと、大学3年生の平成21年、新聞社主催の「2009キャンパスベンチャーグランプリ」に参加し、東京産業人クラブ賞を受賞。さらに、大学3年生の平成22年には、東京都主催の「学生起業家選手権」で優秀賞を受賞した。その賞金で、大学4年時である平成23年3月に、株式会社 和えるを創業。

「就職活動のなかで、赤ちゃん、子どもたちのために職人さんとともに、ものづくりをする会社が見付からなかったため、自分で創ろうと思いました。」

矢島氏は大学院への進学も決め、二足のわらじでのスタートとなった。

◆事業の飛躍
「0から6歳の伝統ブランドaeru」を立ち上げ、子どもたちに日本に誇りを持つ人が増える。

「和える」は、矢島氏がグランドデザイン描き、外部デザイナーが現代の暮らしに合う商品を考え、各地の伝統産業の職人が腕をかけて製作する企業だ。コンセプトは「日本の伝統や先人の智慧を、暮らしの中で活かしながら次世代につないでいきたい」そして立ち上げたのが「0から6歳の伝統ブランドaeru」。

「各地の職人さんたちが心を込めて製作した伝統産業品に、子どもの頃から身近に触れることで、自国の伝統を知る機会にもなり、大人になった時に自然と魅力を感じ、伝えられる人が増えるのではないかと考えています。大人になった時に、『日本人で良かった』と思っていただけたら嬉しいですね。」

aeruで一番初めに誕生した商品は、「徳島県から 本藍染の 出産祝いセット」。本藍染の産着とタオル、靴下の3点セットだ。これは、特定非営利活動法人キッズデザイン協議会が主催する「第6回キッズデザイン賞」を2012年に受賞した。その他にも、愛媛県の砥部焼や青森県の津軽焼などで作られた「こぼしにくい器シリーズ」、福岡県の小石原焼や沖縄県の琉球ガラスなどで作られた「こぼしにくいコップシリーズ」、「愛媛県から 手漉き和紙の ボール」、「京都府から 草木染の ブランケット」など、赤ちゃん、子どもたちが日常的に使うものを一つひとつオリジナルで生み出している。2015年には、日本政策投資銀行主催の、第4回 DBJ女性新ビジネスプランコンペティション」女性起業大賞を受賞した。

aeruの直営店舗は東京の「aeru meguro」と京都の「aeru gojo」の2店舗。また、aeruオンラインショップから商品を購入することができる。

「aeruには男女を問わず幅広い年齢層の方々がお越しくださいます。20~30代の若い方にもご愛用いただいております。みなさん、想いのこもった贈り物をしたいとおっしゃってお選びくださいます。嬉しいことですね。」
直営店「aerumeguro」の店内aeruブランドの商品が全てそろっている・京都市下京区にある直営店「aeru gojo」の店内

◆今後の事業と課題
「和えるくん」をみんなで育て、日本の宝である伝統産業を元気にしたい。

創業から5年目の今年、矢島氏は新たに二つの事業を立ち上げた。一つは、伝統産業品のお誂え(オーダーメイド)事業「aeru oatsurae」、もう一つは、ホテルの客室を日本の伝統産業の魅力を活かしたおもてなしの空間に変える「aeru room」。

「『和える』は法人ですので、人格を有しています。ですから、私たちは一人の男の子として考えています。生まれてまだ5歳の『和えるくん』ですが、私や従業員、デザイナーさん、職人さん、お客さまたち“家族”で温かく見守って、育んできました。20歳になった頃には、『和えるくん』が独り立ちし、そして日本の伝統や先人の智慧が暮らしの中で息づいていることを願っています。」

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【株式会社ブルーニングハーツ(静岡県浜松市)】

(ルアー製造、OEM事業)

〈従業員18名、資本金300万円〉
代表取締役伊藤哲雄氏

「自分の将来は自分の手で切り拓く」「そんな精神がスタッフの技術力向上の原動力に」

◆事業の背景
“このままここで頑張っても、自分の未来はない”、そんな思いが次なる一歩のきっかけに。

疑似餌を使って魚を釣るルアーフィッシングは、スポーツ感覚で行えるレジャーとして、年齢や性別を問わず多くの人に親しまれている。その主役ともいえるルアーは、狙う魚の種類やその日の波の高さ、水の濁り具合など、条件によって使い分けが求められ、その需要に応じるべく、釣具店ではたくさんのルアーが陳列棚に並ぶ。そのなかでも、株式会社ブルーニングハーツは、「樹脂とバルサ材」や「鉛とアルミ」など、2つの材質を組み合わせた、特色ある魚の動きを再現したハイブリッドルアーを開発し、順調に売上を伸ばしている。

「私は高校卒業後、大手自動車メーカーに入社し、自動車の組み立てを行っていました。もともと手先が器用でしたので、作業のスピードは他の人より早かったのですが、いくら周りより多くの仕事をこなしても給料の支給額は変わりませんでした。その時、『このままここで頑張っても、将来が見えてこない』と思ったのです。」と、同社の代表取締役である伊藤哲雄氏は、当時を振り返る。就職の2年後、会社を辞め、かねてから興味を持っていたルアー製造会社に転職した。持ち前の器用さに真面目さも手伝い、早々に技術を会得。1年後には独立し、ブルーニングハーツを立ち上げた。しかし、自己資金もなく、最初の3年間はアルバイトを4つも掛け持ちしながら、給料を貯めては道具や材料を買い揃えていったという。

当初は全国の釣具店を回り、自ら作ったルアーを売り込むも、なかなか置いてはもらえなかった。それでも、伊藤氏のルアー製作の技術は次第に認められ、下請の仕事が舞い込むようになっていった。

◆事業の転機
高い製造能力で下請から脱却、オリジナル商品をブランド化。

「起業してからの13年間は、ひたすら下請の仕事をしていましたね。しかし、元請会社のなかには、私が設計したルアーを海外で安く製造させるようなところもありました。また、工賃を叩かれたり、支払を延ばされたりすることも多く、『下請の事業だけでは、将来性がない』と思いました。」

そこで伊藤氏は意を決し、全ての下請の仕事を断り、平成20年、自社ブランド「シーファルコン」を立ち上げた。その際、伊藤氏は一つのコンセプトを掲げた。

「ルアーで魚が釣れるのは当たり前。そのような当たり前のことをセールスポイントにしても仕方ありません。それよりも、どうすればお客さまの目を引くか、どうすれば手に取ってもらえるか。釣具店に受け入れられるには、そういう視点が必要なのだと思いました。」

そのような伊藤氏のコンセプトを具現化した商品の一つに、ラメ塗装を施したルアーがある。釣具店に並んでも、ひときわ目を引くきらびやかなルアーだが、通常、ラメを塗装すると表面はデコボコになり、かえって見栄えは悪くなってしまう。

「当社のルアーはスタッフが高い技術力で、一つずつ塗装を施し研磨をかけています。この手間暇かけた工程によって、ラメを施したルアーでも表面を滑らかにできます。大量生産を行う大手メーカーではできないことだと思います。」

スタッフによる魅力的なものづくりの能力が高いからこそ、手作業で作ったルアーでも、大手メーカーの商品と同じ価格帯での販売を可能にしているのだろう。
現在でも自ら工場に入り、手作業でルアーの製作を行う伊藤氏

◆事業の飛躍
技術習得の近道は熱い思いを持ち続けること。そして完全成果主義が社員のやりがいを育てる。

同社では、技術者をどのように育成しているのだろうか。

「私も以前入社したルアーメーカーでは、不良品を出しながら仕事を覚えたものです。だから、初心者には一生懸命仕事を教えていきますが、とにかく現場で経験を積んでもらうしかありません。必要なのは、熱い思いです。『ブルーニングハーツのルアーがとにかく好き』でもいいし、『自分の未来を自分で切り拓きたい』でもいい。そのような熱い思いを持った人は、仕事の覚えも早いし、長続きしていますね。」

さらには、熟練した技術者のモチベーションを維持するためにも、伊藤氏はある方針を打ち立てている。

「最初に入社した自動車メーカーで、いくら頑張っても、その頑張りが反映されない現実に絶望していました。どんなに頑張っても、評価されなければ意識は高く保てません。そのために、当社では完全成果主義を採用しています。頑張った人は、頑張った分だけ給料に反映し、その頑張りに報いていきたいと思っています。」

そして平成22年には、資本金300万円で会社を法人化。平成24年には静岡県から「経営革新計画」の承認を得て、助成金を切削機の購入費用の一部に充てた。以後、公的支援も活用しながら、会社を成長させているという。
バルサが内蔵されており、水面に浮きあがった時の様子が小魚の動きにそっくりのオリジナル・ルアー

◆今後の事業と課題
中間マージンをカットするため、1か国に1つずつ販売店を設置。

「シーファルコン」の立ち上げから8年を経て、当初はメタルジグ(金属製のルアー)とプラグ(浮力を持つルアー)各1種類ずつだった商品のラインナップは、現在、メタルジグが19種類、プラグが11種類に増えた。さらには、8種類のロッド(竿)のプロデュースも行っている。こうした自社ブランドを武器に、これからは海外への展開を目指していくという。

「今後、国内においてはOEM事業に力を入れていきたいと思っています。この先、ルアー製造会社の立ち上げを希望する個人などを対象に、製造から販路、公的支援への申請のノウハウまでをサポートしていけたらと思っています。そしてもう一つが海外への進出です。現在は、20か国で取引を行っていますが、海外は中間マージンが高く、それがネックとなってなかなか拡販が難しいです。でも、タイなどでは販売店と直接取引を行うことで価格も抑えられ、順調に販売数を伸ばしています。これからは、1か国に一つずつ販売代理店を置くことが目標。これによって価格が抑えられれば、販売数は更に拡大すると確信しています。」

完全成果主義のもとで磨きがかかる社員の技術力が、世界のルアーの分布図を大きく塗り替える日も近いかも知れない。

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【亀谷窯業 有限会社(島根県浜田市)】

(瓦・瓦タイル・瓦食器などの製造・販売)

〈従業員9名、資本金800万円〉
代表取締役社長亀谷典生氏

「伝統の石州瓦が現代風の器へ大変身」「技術力とアイデアで販路を開拓し海外にもアピール」

◆事業の背景
創業200年を支える伝統と技術力を誇るが、瓦の市場規模は縮小傾向で厳しい状況に。

島根県の石州瓦は、愛知県の三州瓦、兵庫県の淡路瓦と並ぶ日本3大瓦の一つだ。焼成温度がほかの瓦に比べて高いため衝撃や凍害に強く、赤褐色の見た目も独特で、出雲や石見地方の風景には欠かせない要素となっている。
しかし、平成に入って以降は瓦のニーズも徐々に下降線をたどり、市場規模も縮小気味に。加えて燃料の価格変動の影響も受けやすく、ここ10年以内で大手メーカーが相次いで倒産するなど、業界が厳しい状況に立たされている。
そのような中、異業種への参入を果たし、瓦の新たな可能性を模索している企業がある。浜田市の亀谷窯業(かめだにようぎょう)有限会社だ。文化3年(1806年)に創業された同社は、天然素材の来待石(きまちいし)の釉薬(うわぐすり)を使い、摂氏1,350度という他社に抜きんでた高温で焼成する伝統技法を代々受け継いできた。

現在、9代目の社長を務める亀谷典生(かめだに のりお)氏がこの業界に入ったのは平成18年、36歳の時。それまで13年間勤めていた製薬会社の医薬情報担当(MR)を退職し、妻の実家の稼業だった亀谷窯業に専務として入社した。会社はちょうど創業200年の節目を迎える年だった。

伝統産業には、まったくの門外漢だった。亀谷氏はまず10工程以上にも及ぶ瓦づくりの作業を全て覚え、さらに絶対的な経験不足を補うため、通常は職人の経験則と勘で決まる焼成具合を全てデータに取って数値化。結果、独自の製造ノウハウを作り上げ、誤差がなるべくでないようにするなど、努力を重ねていった。
それでも、瓦のニーズは減る一方だ。このまま伝統を守っていくだけでいいのか。鍛錬を重ねる亀谷氏のなかでの葛藤は日増しに大きくなっていった。
210年の歴史と伝統技法を守ってきた亀谷窯業・赤茶色の石州瓦は、県内の至る所で目にすることができる

◆事業の転機
均一性よりも風合いに重きを置いたタイルが、かえってエンドユーザーの目に止まった。

会社にとって大きな転機となったのは、亀谷氏が入社して1年ほど経った頃。切なる危機感を抱いた亀谷氏は、タイルの製造という大胆なアイデアを打ち出した。

「そもそも瓦って何でできているのかすら、一般の人はよく知りません。だったら、もっと直に触れてもらえるようなものを作ろうと思って、タイルの製造を提案しました。屋根と違って、タイルなら興味を持ってもらえるかなと。」当時を回想しながら亀谷氏はそう語る。

亀谷窯業は創業以来2世紀にわたって、それまで瓦以外の製造はほとんどしたことがなく、タイルについてのノウハウは皆無だった。本人以外の全社員が反対するなか、亀谷氏は操業時間外の時間を作り、日付が変わる夜中までタイルの商品開発に没頭する。その過程で気付いたのが、伝統製法に基づいた自社製品の強みだった。

「大手メーカーが大量生産するタイルは、磁器粘土を使った製法で均一サイズになります。一方、石州瓦と同じ素材、同じ手法でタイルを作ろうとすると、焼成温度が高いだけに、性質上、どうしても歪みやサイズの誤差ができやすくなる。つまり、リスクも大きい。ただその一方で、サンプルを見せて回ると『手作り感あふれる風合いがいい』といってくれる声が徐々に聞こえてきました。」

好評価をくれたのは、建材や建築の業界関係者ではなく、一般の施主や飲食店などだった。これまで取引のなかった業種や、興味を持ってもらえなかったエンドユーザーが、味わいのある瓦タイルに関心を示し始めた。その後、東京都心のホテルや高知県のイタリアンレストランといった遠方の顧客からも発注が来るようになった。

◆事業の飛躍
耐熱瓦食器が郷土料理の名店で採用され、飲食業界でも一躍知られる存在に。

タイルに続いて打ち出したのは、平成22年から手掛けている食器類の製造である。きっかけは、業者向けの展示会でのこと。ある飲食店オーナーから「瓦の上に肉や海鮮を乗せて焼いた料理を出したいが、直火をかけても割れにくい瓦食器はできないものか。」という相談を持ちかけられたことがきっかけだった。

いくら頑丈な石州瓦とはいえ、直火にあてると膨張して割れてしまう。そこで島根県産業技術センターに協力を請いながら研究開発に着手。度重なる実験の結果、鉛やカドミウムの溶出基準をクリアし、焦げ付きや臭い移りを防ぐ、まさに瓦の特性を活かした理想の器を作り上げた。
苦心作の「焼いても割れない」瓦食器は、山口県下関市の郷土料理「瓦そば」の名店で大々的に採用された。以降、亀谷窯業の名は飲食業界にもじわじわと広まっていく。

「以前は販路開拓という概念もあまりなく、建材メーカーの展示会へ通常の瓦を出すくらいで、誰も見向きもしませんでしたが、試しにグルメ&ダイニング系の見本市やギフトショーにうちの瓦食器を持って行くと、誰もが立ち止まって興味を示してくれる。瓦屋が作る食器というのが目を引くのかもしれません。」

現在、亀谷窯業では直火用の器以外にも、通常サイズの皿や刺身皿、ワサビのおろし皿、カップ、カップソーサー、箸置き、さらにはアクセサリーまで実にバラエティ豊かな商品を生産。食器に関しては、リピート率9割前後を維持している。
耐熱瓦食器や食器皿、鍋など、バラエティに富んだラインナップ

◆今後の事業と課題
地元の異業種とコラボし地域を活性化。最も大切なのは「いかに付加価値をつけるか」。

瓦タイルや瓦食器を皮切りに、次々と市場開拓してきた亀谷窯業。決して楽観できない市場状況のなかで重要視しているのが、地域との結び付きだ。

「たとえば、ワサビのすり皿一つとっても、地元のワサビ生産者と一緒にブランド豚を使ったメニューを考えたりしています。」

さらに、海外市場への展望も持っている。平成28年、島根県の石州瓦は、経済産業省による優れた地方産品を発掘し海外に広く伝えていくプロジェクト「The Wonder500」に選出された。亀谷窯業でも、近年はヨーロッパやアジアのデザインフェスティバルに出展する機会を得ているが、目下の狙いは短期的な利益よりも自社商品のブランディングだ。

「我々のような資本力のない零細企業は、いかに自社商品に付加価値をつけていくかが全て。海外の人に知ってもらうのは、その一つに過ぎません。今後も同業他社がやらないことをやっていきたいと考えています。」
そう語る亀谷社長の言葉は、多くの小規模企業や伝統工芸の後継者に響くに違いない。

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【日本刀包丁製作所(岡山県瀬戸内市)】

(日本刀の製造方法で作った『日本刀包丁』の製造・販売)

〈従業員1名〉
代表上田範仁氏

「現代に合わせて刀づくりの技術を包丁に応用」「長船の伝統的な作刀技術を伝承する」

◆事業の背景
脱サラし日本刀の聖地へ。趣味が高じて刀鍛冶に転身。

日本刀包丁(にほんとうほうちょう)製作所が立地している長船地区は、瀬戸内市の北端に位置し、東北部は備前市、西部は一級河川吉井川の清流を境に岡山市に隣接している。吉井川の水、日本人の心の原風景である田園、緑の丘陵地など豊かな自然にも恵まれた都市近郊の町。飛鳥時代には、備前焼のルーツとして知られる須恵器(すえき)の産地であったことを示す窯跡が数多く残り、平安時代から室町時代にかけて、日本の作刀の中心地として栄えた。「備前長船(びぜんおさふね)」の名は、日本刀の聖地と呼ばれ広く知られている。

日本刀包丁製作所の代表である上田範仁氏は、高知県出身で、道路工事会社でのサラリーマン生活を4年間で辞し、刀鍛冶になったという稀有な人物だ。

「もともと柔術、棒術、居合、据物切り(刀を用いて巻藁、畳表等を切ること)などの日本武道を愛好していたので、自分の刀を自分で作ってみたいという思いが高じて、40年前に刀鍛冶になってしまったのです。」

一般的な包丁は合金の刃物鋼(はものこう)を購入して作っているが、上田氏は日本古来の「たたら製鉄」という製法で刃物鋼を造るところから製品にまで仕上げている。

「たたら製鉄」とは、炉の中に砂鉄と木炭を投入し、空気を吹き込み高温で燃焼させ鉄を得る技術。「たたら(踏鞴)」とは、空気を送り込む装置のふいご(鞴)のことである。西洋式の製鉄所では、溶鉱炉内の温度が1,500度以上で鉄の融点を超えているため不純物も溶けて入ってしまうが、たたら製鉄なら炉内の温度は1,200度程度なので不純物は溶け込まない。そして、熱した鋼を半分に折り返し槌で叩くことを繰り返すことによって、成分が均一化し強度が増すという。その結果、折れず曲がらず切れ味が良く、千年経っても劣化しない刀を生むのである。
たたら製鉄の火床

◆事業の転機
収入のために『日本刀包丁』を開発、製作体験を受け入れ販売に結び付ける。

「鋼を機械で叩いているところもありますが、切れ味と強さを求めたらやっぱり槌で打たないとダメです。私は据物切りをしますので、経験的に分かります。」と上田氏は断言する。

刀づくりの技術は、長船の刀づくりを復活させ新作名刀展などで多くの賞を受賞し、長船町名誉町民や岡山県重要文化財などの認定を受けた今泉光俊氏、代々400年以上受け継がれている刀鍛冶の師匠・河内守國助などに弟子入りして身に付けたという。

「明治以降、刀づくりは下火になっています。家族からは、生活できなくなると、かなり反対されましたね。仕方がないから、代行運転や溶接工、重機運転などで生活費を稼いでいました。」と上田氏は修行当時の苦労を話してくれた。

日本刀は高価であまり売れない。そこで、20年前からは技術を磨きつつ収入を確保するために、日本刀と同じ技術で作る「日本刀包丁」を作るようになった。包丁なら比較的手頃な価格なので、良い包丁が欲しいお客さまが購入しやすいし、自分の収入も確保できると考えた。この包丁は日本刀と同じ作り方をするため、錆びにくく非常に切れ味もいいと好評だ。

もう一つの工夫として、製作体験会を開催し1日限定で希望者を受け入れた。製作体験は無料、作業風景の撮影もできる。団体客が多く、弟子の作品を購入してくれることも多いという。

また、ホームページを充実させ、英語版での情報発信もしている。折り返し鍛錬の技術は珍しいので、この現場を見たいという外国人も多いそうだ。

◆事業の飛躍
ネット販売で『日本刀包丁』の売上は順調。外国人の体験希望者も増加。

手打ち鍛錬した上田氏の包丁の価格は1本10万円程度と高い。機械で鍛錬した包丁は5万円程度だ。しかし、同店では年間100本程度は販売している。

「販売はインターネットからがほとんどです。外国人も多いですね。そして製作体験会でも外国からの参加者が増えていて、一度に20人来て午前と午後に分けてもらったこともあります。来週もオーストラリアから来ることになっています。帰りにはお土産に包丁を買ってくれるので売上も伸びます。」と上田氏は嬉しそうに語る。

外国人の来訪者が増えたのは、平成27年9月まで1年間、大手航空会社の国際便の機内ビデオで、刀づくりの模様を紹介してくれていたことが大きく影響しているという。

最近では、刀づくりの技術を研究するために、大学の教員も話を聞きに来たりする。また、たたら製鉄についての出張講演もこなしているそうだ。

上田氏は、長船の伝統的な刀づくりの技術を将来に残そうと、今日も汗を流しながら全力で刀と向き合っている。
手打ち鍛錬の様子

◆今後の事業と課題
弟子の育成が最大の課題。「寿包丁」で新たな需要を開拓。

刀鍛冶になるには、刀匠の下、最低でも5年間の修業をし、文化庁が行う研修を終了する必要がある。上田氏の場合は、5年間の修業の後、刀を造って波紋まで入れ、欠点のないものができるようになるまで約3年間面倒をみる。この「上田試験」を合格すれば晴れて一人前の刀鍛冶として認められるのだが、これまでに3人しかいないという。修行をして専業で生活できるようになるのは、全体の1割程度に過ぎないといわれる。

「弟子を育てるのが最も苦労しますね。全国でも10人以上弟子を育てている人はあまりいませんが、うちは13人育てています。ただ、自分の研究がなかなかできないのが悩みです。」

最近、「寿包丁」といって、新郎が新婦に内緒で包丁を打ち、自分たちの名前を入れる商品を開発した。その模様をビデオに撮って披露宴で上映する人が多くなっており、評判になっているという。

「もっと鉄を研究して、国宝級の刀が最も多い鎌倉時代と同じような作品を作りたいと思っています。もちろん「日本刀包丁」の売上も倍増させたいと思っています。そして、その資金で弟子を育てていきたいですね。そうすることで、砂鉄から作った包丁の伝統技術をつないでいきたいと思っています。」

上田氏の刀鍛冶としての鍛錬は、まだまだ続きそうだ。